「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

面白くなき世を面白く生きるため

 

人との縁は不思議だなぁと思う。

くっついたり離れたり、一度きりの縁もある。

 

男のひと、女のひと、というくくりをなくしてしまおうと思ったのは大学に入ってからしばらくしてのことだった。

好きになってしまったあとに、触りたいと思ったあとに、いちいち自分のセクシュアリティーについて考えるのが面倒になったから。それが理由。

あれから出会うひとたちはみんな人間だと思ってる、当たり前なんだけど。人間。

ときどき人間の形をしてるけど人間じゃない人もいる、見なかったふりをするか走って逃げる。逆にすばらしすぎる中身のひともいる、そういうときはどうしたらそのひとたちのようになれるか、行動を真似してみる。そうして少しずつよりいい人間になろうとしてる、つい。

 

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自分が女の人だというのを受け入れられずにベリーショート。

そしてそれが続いていったときにひどい経験。好きじゃない相手に体を触られるのってこんなに嫌な気持ちするって信じられなかった、今でも嫌いだし憎んでるよ。おほほ。

まあもう半分くらいどうでもいいって思ってるけど。だって起きるべくして起きたこと。それからいっぱい考えて、自分のことをまるっと受け入れることに決めてから髪が長くなって、そしてまた人のことを好きになれた。

 

そいえばポリアモリーについて知ったのは4年次に上がってからだった。

目の前に好きな人がいて、隣にも好きな人がいる。

新しい好きな人ができたからといって、なぜ今隣にいてくれている人にさよならと言わないといけないのか苦しんだ経験から、勉強を始めて出会った新しいカテゴリー。

それがポリアモリー。

この本とてもわかりやすいよ、ポリアモリーのこと知りたいならとてもいいと思う。

 

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

 

 

カテゴライズも良し悪しだと思ってる。

だってカテゴリーに縛られてしまって自由さを失ってしまったら本末転倒。

自分を何かの枠に押し入れることは、まるで何かの特許を得るような、錯覚にすぎないようなことだ。

 

「百合のリアル」という本をこないだ読んだ。

会話形式でわかりやすく現在セクシュアルマイノリティーとくくられる概念についての整理がされていて、読みやすかった。

この本。

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 

タイトルは売れるためにつけられた感じ。

内容はもっともっといいもの。でも大勢の人が手に取るきっかけになりやすいという意味ではいいタイトルなのかもしれないね。

 

そう、それで、結局マジョリティーかマイノリティーかってどちらでも同じことで、ただ、今の世の中はあまりにもそれらを区別しすぎていて気持ちが悪いっていう話にすぎない。

 

あなたは一人のひとを愛しぬくことが美しいと考えるモノガノミー。

私は大勢の人ともパートナーシップを築けると信じているポリアモリー。

ただその違いに過ぎない。

しかもそれさえもあまり意味がない。

結局はひとりひとりが「自分」を肯定して生きられればそれでいい。

 

セクシュアルマイノリティーの話があまりにもわかりやすいのでそれを多く使ってしまうけれど、大切なのは本当にこれに尽きる。

自分で自分を肯定していないひとは攻撃的になる。

しかもなぜか同じタイプのひととくっついて攻撃的になる。

 

この世に存在しているひとにマジョリティーもマイノリティー、どちらか片方を持つひとなんていない。

みんなどこかで何かに属していて、それはどちらかに分けられるだろうけど、どちらかしかないということは絶対ないと思う。

 

だから別に本当にどっちでもいい。

カテゴライズすることに必死になって自分の幸せを見失わないでほしい。

ここ数日でポリアモリーの記事にたくさんのアクセスがあって、いろいろ意見もいただいたけれど、やっぱりどれを読んでいてもそう思う。

 

どちらでもいい、っていうかあなたがポリアモリーかどうかなんて私には規定できない。

カテゴライズすることに意味があるとすれば、それは説明するのが面倒なときにその用語を使うと説明が簡単だとかそういうことでしかない。

 

上に紹介した「百合のリアル」のなかで著者も繰り返し言っていたけれど、最終的には自分は自分だと思えればそれでいい。

だってたとえば一番最初に書いた、女の人も男の人も好きになるよ触りたくなるよっていうのは、一般的にはバイセクシュアルとあらわすのだろうけれど、私のこの中途半端さはなんだかバイセクシュアルという言葉が内包するいろいろなものとは違う。

だから結局どっちでもいい。

 

だいたい誰かに理解されようと強く思うからそんなにカテゴライズにこだわることになるのではないかと思う。何者でなくてもあなたは私にとっての大切なひと。

それ以上でもそれ以下でもない、何に属していようと嘘つきで言葉も行動も全部嘘でも目の前にいて一緒にいるのが楽しいと思って会うのだから、だから大切なひと。

 

ひととひとなんて理解しあえない。

血がつながっていたらそれはなおさらのこと。

お互いを支えあい愛し合う家族なんてまやかしだと思う。

みんなどこかで折り合いをつけて一緒に暮らしてる。

でも、そこにお互いを大切に思う気持ちがあるからそれができる。

その気遣いこそが愛だと思うし、それは家族に限定されない。

 

だから家族を大切にしているひとは周りの人を大切にしているように感じるし、まだ家族のことを解決できていないひとはそのなかにいるというだけ。

家族のことを解決しないうちは周りの人間関係にもいろいろと起きる。

別にそれさえも問題ではないんだけれど。

 

自分のセクシュアリティを親に理解されなくても誰に理解されなくても、あきらめてほしくない。別にそのままのあなたを受け入れられなかったとしてもそれはあなたの存在を否定することとイコールではない。

 

セクシュアリティだけじゃない、生き方もそう、価値観もそう、夢もそう、人間関係のタイプもそう。なんだってそう。

あなたがあなたでいることを許可できさえいれば、ほかのひとから何を言われても平気。

本当にそう。

 

何を言われてもなんとも思わない。

だいたいのひとが「何」を言う相手を間違えているだけ。

頭ごなしに何かを言われたら注意深く相手を観察したらいい。

たいていの場合は二択で、自分よりも弱いと思う相手をコントロールしようとしているか、本当は自分に言いたいのに自分を変えたいのに変えられなくてイライラしてるかの二択。

ときどきもっとこわいひともいるけれど、そういうひとに出会ったら走って逃げるのが〇。

そして、ときどきびっくりするぐらい愛してくれるひとにも出会える。

だから大丈夫。

本当に愛してくれている人は厳しいことを言ってくるときも嬉しいことを言ってくれるときもどちらも一貫してきれいな響きをしてる。

声に嘘がない、表情にも。

注意深く相手を見たらいい、信じられないと思うなら裏切られてもいいと思えばいい。

 

どうしてこんなにいろいろな目にあったのか考えたけれど、やっぱり人の役に立つために、同じ境遇にいるひとに寄り添うために神様がそうしたんだと思う。

もっと苦しい経験をしたひとは大勢いる。そのひとたちはきっとまた違う規模感のやることを担っているのだろうと思う。

あんまり苦しくない経験を必死に苦しい経験に仕立て上げているようなひとも時々いるようにみえるけど、そのひとはそのひとの課題に必死に取り組んでいるので横からやいやい言っちゃダメ。

 

だから、だれも、今大切だと思うひとがだれも勝手にひとりにならないといい、と思ってる。

だれも勝手に決めつけてひとりにならないといいと思ってる。

 

何度も勝手に周りの人にあきらめて、今の自分にあきらめて、勝手にひとりになったのに、何度もそこに血のつながりがあってもなくても助けてくれるひとが現れた、そして血のつながっているひとにも助けられた、何度も。

同じようにひとに何かできるひとになりたいと思うし、そうありたいと思う。

でもできないことはできない。

どんな気持ちで「受け入れてもらえない」と苦しんでるのかも直接会わないとわからない。

 

でも、今生きている場所だけが居場所じゃないから、厳しいと思ったら逃げればいいから、もっと生きることを楽しめるひとが地球に増えればいい。

地球はこれからもっと楽しい場所になる、そうなるために動き続けねば!

 

というわけで思いつくがままに明日は朝から温泉。わくわくだ~~~~!

 

きっといいことだらけだよ。

何もする気起きないならいっぱい眠っていっぱい食べていっぱい好きなことして。

それから動き出せばいいよ。大丈夫。

 

あ~明日もきっといい日だね~って眠ればいいよ。思えなくても言ったらいいよ。

 

どうしてもうまくいかなかったらラートに触ったら元気になる!かもね!

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