「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

念を感じた話。(見えないものと生きていくためには「ごきげん」でいるのがわりと重要なことかもしれないの話)

 


生きるということ。

 

それは、美味しいものを食べることであったり、大好きなひとたちと語らうこと、本をゆっくり読むこと、映画を楽しんだりすること。

 


そして、表現する。

 

生きている喜びを、嬉しさを、表現する。


表情で、身体で、言葉で、動きで表現する。

 

その表現がまた誰かの喜びにつながっていく、そのループの中で生きていく。


消費者としてだけ生きていくのには退屈してしまう。

生産者としてだけ生きていくのには疲弊してしまう。

 

どっちもあるから面白くて、どっちもあるから支えあえる。

 

 

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(ラートはその一部分。私を生産者にしてくれそうなツール!)

 


ちなみに、そこにお金が介在していても、いなくてもどちらでもよくて、だからそのうちお金はなくなるんだろうなぁと思うわけです。

本当にサービスとサービスの交換の社会がやってくるんだろうなってワクワクしています。

この本がその考え方のもと。

 

お金のいらない国

お金のいらない国

 

 

読んでみてね。

 

 

生きているのはこんなに嬉しいことだったっけ、と今朝、車のなかから久しぶりの青空を見上げた時に思いました。

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生きているのが嬉しい。

 


昨日の夜は正反対のところにある感情を感じ切りました。


恨み、悲しみ、つらさ、よごれ、苦しさ、怒り。


なぜ、ひとはひとのことを「利用」できるのか、私には理解できません。

わかるのはそこにある感情だけ。

 

そして、なんらかの「目的」だけをもって人と付き合うとき、そこには必ず歪みが生じるんだと思います。

その歪みは積み重なって取り返しのつかないことに。

 

https://www.instagram.com/p/BCVZvilDcbi/

(たくさんのひとがいるこの世界だけど、みんながそういう利己的なのをやめたら、もっといい世界になるのはすぐなのに、といつも思います。理想主義だといわれるけどね。)

 

車のなかで、私ではない念によって、感情を揺らされ、わーわー泣きました。

声をあげて泣くなんて、どれくらいぶりだろうと、あ、びわっちさんのイベントのとき以来。
二つ前の満月の夜のことでした。
あのときは、昔の自分が泣いていた、小さい自分が泣いていたなと今ではわかります。


でも昨日の夜のは私ではないひとが泣いていた。
嗚咽を漏らす自分を少し別のところから見ながら、念というのはすごいなと思いました。

生きていても死んでいても変わらない「念」があるのだなとわかりました。


彼の言葉が私の口から出てくるたびに、驚いて、あとから確かめるとその内容もあっていると。
彼とは会ったこともないんだけれども。

ここ数日のいやなこともたぶんおおむねこれが原因。

ややすっきりしました。

 

でも、共鳴するから私が泣いたんだとも思います。
私の中にまったくない感情だったら、その「念」を理解することも身体が取り入れてしまうこともないはず。

同じような感情が小さいかけらであれ存在したから、その「念」に身体は揺らされ、大泣きして、言葉を伝えたんだと思いました。

霊感自体はあまりないほうです。


私が感じているのは「念」だとわかったのは昨日でした。
それまでは、「念」ではなく、洞察や察知をしているだけ、分析をして考えて答えを出しているだけだと思っていたんだけど。

昨日のひとは知らないひとだったからなぁ…。
なんではるななんってツッコミいれてたけど、大切なひとが何人か介在していたからだと思います。

そのひとたちに「大丈夫」と「ありがとう」と「ごめんなさい」を伝えないといけないんだけど、信じてくれそうなひとりにはもう話してあって。驚かれましたがわかってくれてた。
いちばん伝えたいひとに、この言葉をどう届けたらいいかわからなくて困っています。
伝わったらいいなぁ。


これはひとの役に立つために神様が与えてくれたものだと思いますが、どう役立てたらいいかはまだわからないので保留です。

でもちょっと、勉強しないといけないな。

じゃないと疲れちゃいそうです。
何はともあれ、すっきりしてきました。

 

それにね、昨日の夜のことがあってはっきりわかったことはもうひとつあって。

それは「ごきげんに過ごす大切さ」です。


生きている、死んでいる関係なく「念」というものが身体(というよりも中身なんだけどうまくいえない)から発せられているとして、それは大なり小なり周りのひとや場に影響を与えている、と実感しました。


そしてその念は、ひとの活力をうばえるし、またその念によってひとはひどい行動を取らされてしまうこともある。
最近私の身に起きていた危ない出来事たちは、たぶんこのひとの念だろうなと昨日理解しました。
そして小さい頃からの経験を合わせて、私はそういう念に見つかりやすい性質を持っているんだろうともわかりました。


乗っ取るのも、乗っ取られるのも簡単。


そこから、唯一自分を守れるのは、たぶん「ごきげん」です。
(あと自分のことを愛してくれているひともね!)

https://www.instagram.com/p/BCeePKXDcXC/

(会いたいなぁ。)


だから、「ごきげん」でいることを選んで過ごさないといけない。

「ごきげん」でいられないときは、ちゃんとひとにSOSを出して休まないといけない。

「ごきげん」で過ごせることに執着しないといけない。


でね、これまたたぶんだけど、あんなに悲しい念がのこるなら、同じように喜びの念ものこせると思うわけです。

だってもともと0だから。0になるように在るのが常だから。

 

そうだとしたら、私は喜びの念を出していたい。

そう決めました。

だからね、生きているのが本当に嬉しいって今思っています。


そして、それをひとに伝染させられるくらいパワフルに生きようと決めました。


もう「ごきげん」じゃないのには飽きました。

 

いっぱいいっぱい種をまこうと思います。

生まれてきてよかった、を毎日見つけようと思います。

 

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(いちばん簡単なのはおいしいものを大好きなひとと食べること!)


意図的に「ごきげん」に。

それは不自然なようで、実は不自然じゃないのかもしれません。


落ち込むのも悩むのも「ごきげん」になるための大切なステップだから。

全部味わいつくして、どんどん次のステージに進んでいけたら、それが私の幸せだなぁ。


停滞も味わう。そこは課題です。

 


さて、昨日の夜はSOSを出せたおかげで、助けてくれた友人のおかげで、久しぶり、本当に1週間ぶりくらいに熟睡できました。

昨日の夜のシュークリーム、車のなかでの歌、ゲストハウスでの一晩、そして朝のドライブ、これから食べるハンバーガー。

ひとのやさしさがきっかけになって、また「ごきげん」の日々です。

今日はいっぱい充電する一日にします。
あと荷物をまとめます、次の場所へゴー!


今日が終わるころには、身体も気持ちも元気満タンです。
明日の4時間練習は満喫できそうで嬉しいです。はっぴ~~~!

ラートがしたい気分だよ! 

読んでくださってありがとう(わけわからない記事だったと思いますが)

癒されnight? メッセージフォームからもお問合せ受付中ですので、ご不明点あれば、右からお願いしますね。
今日いろんなお返事出したり、情報発信したり、いろいろします。(ごめんなさい!)

いつもありがとう、愛をこめて!らぶ!

 

https://www.instagram.com/p/BC8UzljDcdM/ごーごーごー!