「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

やっと、新卒捨てた自分を肯定できた!

 

大きな戦争を終え、がむしゃらに頑張り、経済的にぐぐぐっと成長し、消費の喜びを満喫。

その後、バブル崩壊を経て、経済的な喜びよりも家族や人の繋がりに重きが置かれはじめたり、より革新的な技術に人々の注目が集まる。

でも、ふと目の前の暮らしではなく世界を見ると、自分の生まれ育った国が本当に必要なのかわからない戦争に加担。その後立て続けに国のトップは交代、リーマンショックが起きてあっちゅう間に更に不況に。

 

みたいな感じに移り変わってきた世間のなかで、ぽんっと生まれて、ぱぱぱとでっかくなり、「そうだ、沖縄の大学だ!」と思い立ち沖縄に移住して4年と半年が過ぎました。

 

今日ね、車のなかで「これ以上豊かになってどうするんだろう」の話を友人としたの。

 

話の発端は、お金のかかり方についての話。

 

もっと前にさかのぼると、焼き鳥屋さんからその話は始まりました。

(地産地消をテーマにめちゃ美味しい焼き鳥を出してるお店が大学のそばにあってね。)

 

「今大学1年の娘がいるんだよ~」と話してくれたんです。

でね、横から奥さんが「いろいろ考えて定年のない自営業を選んだんだよ」と教えてくれた。

 

焼き鳥屋さんのおじちゃんとおばちゃんはめちゃ幸せそう。

いろんな苦労はそりゃあるけど、楽しそうにお仕事してる様子をみてるの大好きです。

 

けどね、 そこからこの会話は始まったわけです。

決しておじちゃんおばちゃんをバカにしているニュアンスではなく、自分たちはどう生きようかという話。

 

車を持ち、家を借り、教育のためにローンをして、それをまかなうために働き続ける。

それって、実は、中世の頃の生活と何が違うんだろうと、そういう話をしました。

 

まだうまく言語化できないんだけれども、、、。

そして、この考え事を「みんながしなくては!」とか「世界は変わらなければ!」とかそういうことを伝えたいわけではなく、ただただ、今こういうことを考えているよというのを1000分の1つの記事として残しておこうと思って。

 

おじちゃんおばちゃんの世代のひとと、自分たち世代のひと、また役割が違うんじゃないかと思ってて。

 

そう、中世の頃は封建制。

農奴として土地に縛り付けられ、主人のために尽くす。

その生活を続けられたのは宗教があったから。

死んだ後、きっと報われると信じたから。

 

封建制が終わったのは、産業革命のおかげ。

そこから近代へと世界は移り変わっていく。

みんなは「自由」になり、資本主義が始まっていく。

 

でも、少し前の社会学の講義で先生は、「この自由にはカギカッコがついている」と言った。

 

その自由さえも、資本家たちがより豊かになるために、消費者を求めた結果。

農奴でいてもらうよりも、労働者に代わってもらったほうがよいと時代が求めた結果。

 

近代から現代への切り替わりについてはいろいろな議論があって、わたしは全部を知っているわけではないけれど、ポストモダンや、前近代、なんだかいろいろな言い方があって、正直よくわからない。

 

まだ近代と大きな違いがないから、今の時代のことを「現代」と呼べるのだろうかというひともいる。

 

、、、ちょっと長くなっちゃった。

 

大学に入ってからまるでGUとユニクロが新しい制服になったみたいだという話も面白かった。

 

みんな何かの線を感じて、その線からはみ出すものがいないかをお互いに監視する。

 

 

そこから抜け出す生き方を模索することはとてもこわいことに感じるし、わたしの話で言えば、うさとの服をまとうことも、little eagleの服をまとうことも、それで出かけるのも、少しこわい。

 

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こんなに似合っててもね!笑

 

これをきて愛知に帰れるだろうかとか、東京に行くだろうかとか、うーんと思う。

沖縄だからできることもいっぱいある。

 

 

わたしは就職しないことを選んだ。

大学に入学するまでのいくつかの困難や、学費や生活費をだしてくれた家族への思い、助けてくれた大人たちへの思い

、いろいろある。

 

でもどの大人も「自分で選べ」と言ってくれた。

 

わたしは就職しないことを選んだ。

そして、それを数週間悔やんだ。

 

もしかしたら、間違えているかもしれない。

 

けど、これでいいと思った。

 

誰からも搾取しない生き方を探す。

自然と共に生きる方法を探す。

 

そして小さく実践を積み重ねる。

 

決して、世間から抜けることを選ぶのではなく、アナーキーになることを選ぶのではなく。

 

今、ひとりの「世間」をつくる人間としてできることを探し、積み重ねる。

 

 

きっとこの生き方を選んでよかったと思う日がくると今日わかった。

なんでかわからないけれど、そんな気がする。

 

失敗だったとしても、わたしの人生、大いに結構。

たくさん笑って、たくさん泣いて「よく生きた」と思って死ねるならそれでいい。

 

 

ずっともんもんとしながら、誰かへの罪悪感に苛まれ、見せかけの優しさを選択し続けるのはやだと思う。

 

 

(そして、わたしみたいなひとは少ない人数ではなくこの沖縄にもいることをわたしはよく知れた。)

 

 

どんな手法なのかはわからないけれど、とりあえずいっぱいいっぱい経験してみようと思ってる。

 

そして、5年も経てば新卒が就職に有利な時代も終わり、もっともっといろいろな生き方をするひとも増える。

自分で畑をするひとも増えるかもしれないし、方法はわからない。

 

大昔の生活に戻ることが正解だとは思わない。

きっと何か良い方法がある。

 

わたしのご先祖様をたどると、資本家側にいたひとも、国政側にいたひともいれば、農民だったひとも、狩猟民族だったひともいる。

 

少し世代をさかのぼれば、だいたいのひととは家族だ。

 

きっと、いろいろな方法がある。

ちゃんとたどり着ける。

 

 

見つける頃には、一番お世話になったおじいちゃんやおばあちゃんはもうきっとたぶん。

だから、最後まで安心させてあげることとかはできないのかなと思う。

それが一番、あれかなって思う、あれかなって。

 

とりあえず、でも、おじいちゃんがずっと前の夜言ってくれた言葉がある。

 

「何を選んでもええ、ただ、幸せになる道を選べ。不幸になる道だけは選ぶな。」

 

そう言ってくれた。

だからたぶん、たぶん、この道でいい。

 

わからないけれど、この道でいい。

 

きっと、たぶん、きっと!

 

っていうのが芽生え始めた日だったんだ!笑

 

いえ~い!

 

今日一緒に話した友人は、C.ダグラス ラミスのこの本を紹介してくれた。

 

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか (平凡社ライブラリー)

 

 

 

読もうと思う、今この選択をした自分に何かヒントがある気がしてる。

 

長かったのに読んで下さってありがとう。

誰かの価値観を変えたい!という思いは微塵もありません。

前期に受けた社会学の講義がなぜ面白かったか考えた(軽め)

社会学を半年間勉強した。

といえるほど勉強できていないと思うので、ちゃんと書くと、今年度の前期の琉球大学の講義である「社会学原論I」を受講した。

そして今日は最後の講義だった。

 

「社会学」が一体どれほどの規模のものなのか、まだいまいち掴めていない感があるものの、たぶん半年間の講義を終えた今はやっと入り口に立ったぐらいのものなんだろうと思う。

 

講義の面白さというのは、先生(教員、講師)のタイプ=学生の好き嫌いであったり、用いる資料の種類=学生の好き嫌いであったり、はたまたその学問全体のタイプ=学生の好き嫌いであったりと、つまるところ受けての好みによって決まるのではないか。

でもそのなかでも、大多数の学生にヒットするような講義があり、社会学の講義はそれにあたるのではと講義風景をみていて(参加していて)考えていた。

他の先生に「どういうところが特に面白いの?」と聞かれて改めて考えてみたら、そこにはいくつかの理由があった。

 

  1. 講義の進め方が面白い
  2. 使われているテキストが面白い
  3. 講義で取り上げられるテーマが面白い

 

の3つである。

それぞれ細かく書いていきたい。

 

講義の進め方が面白い

 

なんといっても授業の進め方が面白い、先生が関西弁で話すテンポがはやめなのとか、ところどころに笑いが織り交ぜられていることとかももちろんのことながら、大まかなスケジュールがあって、なんていうか楽しいのだ。

どの回の講義も、同じスケジュールで進行がされる。

 

①テーマについてのインプット
 先生→学生への知識の共有

②インプットした知識についての考察
 学生が自分で考える時間

③考察のシェアとさらなる深掘り
 学生が他の学生とグループをつくり議論をする

④マイクを使って全体でシェア&先生からツッコミ
 グループごとに教室全体にシェア
 先生はリアルタイムで書き起こし、みんなに共有

 

②は回によっては省略されるが①、③、④は必ずある。

特に②~④がこの講義の醍醐味のように思える。

 

かつ、「リアルタイム感」があってなんだか参加型の講演イベントにきているかのような楽しさがある。

先生の喋りがうまいのはもちろんなんだけれども、自分も一参加者として先生とのやりとりや、他学生とのやりとりをエンジョイできる。

 

そして、当たり前のことながら、自分以外の価値観や意見を知ることが、他者との差異を感じるきっかけとなりそれは自分をより知ることへとつながっていく。

「社会学」という特性もあると思うけれども、ここまで学問と自分の暮らしを引きつけて思考し、講義後にも疑問のタネをのこしてくれるような講義はなかなかないと思う。

 

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使われているテキストが面白い

 

テキスト名がわからなかったので(絶版らしい)、詳しいことは紹介できないが、とにもかくにもテキストがツッコミどころ満載で面白い。

(講義中の先生によるツッコミがまた面白くて、ヒーヒーなる。こんなにわらけた講義も他にない。)

 

でも「笑い」のなかに自分の価値・規範が潜んでいたりして。

そんないろいろな種類の面白さを提供してくれるテキストだった。

 

ちょっと欲を言えば、少し古い気もしたので最新版を同じひとに出して欲しいと思う。

 

テキストをスライドで映し出し、プリントを配らない講義形式もめっちゃいいと思った。プリントは持ち帰るのにかさばるし、ネタバレが簡単なので講義になんとなく集中できなくなる。

(でも資料の多いプリントとかは論文執筆の際たすかるから、その辺りは講義の目的による。)

 

講義で取り上げられるテーマが面白い

 

琉大のシラバスにのっているこの講義の内容がこちら。

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テーマは「一人ひとりの個人である私たちは、「私とあなた」、「私と私たち」、「私たちとあなたたち」のつながり、相互作用、ときには葛藤や暴力をはらんだ関係性を、どのように把握し、体験していけるのか。この授業では、社会学の基本的な思考方法を学び、私たちの社会的な自己をより豊かにしていく回路を模索する。」だ。

 

これだけでも、好きな人には響くだろうな~と思いつつ。

本当にどれも面白かった、一見自分には関係ないと思えるテーマもどこかでつながっている。結局無関係な事柄などないのだと、社会って一体なんだろうと講義のたびに考えさせられた。

 

 

わたしはとても飽き性で、かつ決まった時間に決まった場所に行くという当たり前のことがとても苦手で、何回か通った講義でも教室の場所がわからなくなってしまったり(メモしていたメモを忘れたり、携帯にメモしても携帯の充電が切れたり)ということがあって、「出席すれば単位がもらえる」という一般的に「楽」とされる講義をめっちゃ落とした。

「らくだよ~」の言葉につられ取るんだけれども、結局「らく」だからとった講義で単位をとった講義はない気がする。

 

内容が面白い講義は、どこかに「うちあたい」があるんだと思う。

この社会学の講義はまさにそうだった。

 

自分の人生をおもしろく観察するひとつのモノサシをこの講義からもらったな~と思う。

これから最後のレポートを書く、このレポート次第で単位とれないかもしれないんだけど苦笑、がんばろう~~~!

 

というわけで、オススメ講義シリーズ第二弾でした!

第一弾はこちら。

 

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社会学の講義についてかいた記事はこちら。

www.pidakaparuna.space

 

社会学についておすすめの本

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

 

大学生活最後の夏、デジタルマーケティングの講義から学んだこと3つ!

大学生活最後の夏、大事なことを講義から3つ学んだのでのこします。

 

「沖縄県立博物館・美術館の来館数を2020年までに年間100万人にまであげよう!」という課題を渡され、6人チームをつくり、10分間のプレゼン発表で、それに対して順位がつくという講義。

 

結果は、予選1位通過の決勝最下位の4位・・・ちーん!

まだ心はへなっとしているのですが、とりあえず今考えてることを忘れたくなくて書き始めたというわけです。

 

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1. 課題を取り間違えたことへの後悔

 

まずね、まず、もう完璧に予選で出し切ってそのあと「最高得点だった!!!」というチームの子の嬉しそうな報告を聞いて、一回エンジン切れてた、かつ調子にのった。

どう改善しようか?よりも、どう説得しようか?にその時おそらく切り替わってしまい、どんどんと軌道がずれた。

予選で出し切れた要因は、わりと明らかで「他のチームはおそらく手を抜いてくる」という予測と、個人的に最後にチームでの作業出し切りたいという思いがあったんですよー、あったんです。

(性格悪いよねぇ。笑)

 

でね、だけれど、連日深夜に集まったり、自分たちでアイデア組み立てたり、みんなで分担したり、ちょ~~楽しかった!

だから1回目の講義はすごいよかったんだよね。

だけと、なんか2回目のその決勝は、なんか「我」が強まっちゃって。

 

すごい深夜でもすごい真面目に長文で返信をくれるメンターさんとか、健気にもう本当に健気に二転三転するアイデアについてきてくれるチームの子とかの「ために!」みたいな、そういう「我」が強まって。

で、その我の強まりとともに「説得するんだ!!!!」モードになってしまったんだなぁ。

 

今ならわかる!

これは講義であってコンペではない!

ので、センセーショナルな訴えではなく、求められてるのはちみつな計算と知識だったと・・・。だし、コンペだったとしても、あれじゃーだめだよね、担当者不安になるよね。も〜〜。涙がでちゃうよー、あほだった。

 

今日は講義のあと、自分がなまじっか出しゃばってしまったが故にチームの方向性をあやまらせちゃったっていう後悔が一番大きくて、がっくしでした。

 

 

2.チームでの力の発揮の仕方についての課題

 

そう「出しゃばる」という認識があるんです、チームのなかでよく話すこと、活発に意見をいうことに関して。

これはもういろんな尊敬してる大人の先輩方に「でしゃばりすぎ」「喋りすぎ」「他のひとの機会を奪ってるよ」というご指摘を去年たっくさんいただいて、それの反動?というか実験で発言しなくなったのが今年で。

でもなんかそれじゃー進まねーよ!!!!となって、もうかぶってた猫の皮を脱ぎ捨ててガンガン話してガンガン進めたんだよね。

 

だけど、結果に対して思うことはやっぱり、みんなが平等に意見を出せる大切さだと思った。

もしかしたらチームの子のなかに「あれ?」と思ったメンバーがいてくれたかもしれなくて、でも、わたしがどんどんどんどん前に後ろに移動するので言えなかったかも、的な。

 

まあ一応今の自分が出した答えは「わりと個人プレーの方が好き」なんだけれど、でも、決勝ではない方のつまり予選の講義前に感じたチームの面白さ、自分にはない視点がでてきたり、自分にはできない計算とか例を探し出してくるとかそういう能力とかを見つけた時の喜びとか、褒めた時の反応とか、合間でするどうでもいい話の面白さとか、人間関係が構築されていくさまとか。

 

ちょっと、なんか「個人プレー好き」ではない自分の一面をみたきがして面白かったし照れくさかった。

 

なので、課題としてこれから取り組みたいのは、チームで進めるときに平等に意見が出る工夫をしてみること。

(わざとちゃんとファシリの道具を用いるとかね)

そして、なんか全員が表現できる場を何かしらつくること。

(チームのミーティングでは発言できないメンバーもいる)

 

あとは、めっちゃ思うのは、意識がちょっと低めのひとにフォーカスするのではなく、意識の高いメンバーとちゃんと進めて行くこと。それで企画が安泰かなと思うところまで進めたあとに、マネジメントにはいること。

 

なんか、ほっんといろいろ考えさせられた。

このあと実践の場があるかがちょと不安なくらいに!笑

 

 

3.なんにせよ「打席に立つ」大切さと本気を出すことの大事さ

 

最後にね、メンターの方が「なんにせよ打席に立つのが大事なんだよ!」という話をしてくれた!

もう言葉の選び方とかに、順位が下のチームへ「こんなことで燻らないでね」って思いが滲み出てて、なんか学生への思いみたいなのをすごい感じて、で、これメンターの方ひとりに思ったことじゃなくて、なんかもろもろ刺さった。

 

講義にさ、本気をだすなんてカッコ悪い。

そういう思い、小学校の高学年くらいからずっとあった。中学、高校もそう思って内職したり本読んだり。

でも点が高い!みたいなのにこう、なんかフフフっていうのを感じる、ほっんとひんまがってたんですよ!

 

だけど、今回の講義で、本気で向き合ってくれるひとに出会うと、つい本気になっちゃう。

というか本気をださないってもったいなかったんだ!!ということに気づけたというと大げさかな。

でもそういう気持ち!

 

あと気づいたのはもろもろちっこい気づきかな。

ある程度人間関係ができるまでは、お互いの思考回路が、思考の経路がわかるような情報の共有の仕方が必要だったりとか、わからないって言えない雰囲気をつくらないとか、質問しやすくするように誘導するとか。

わりとマネジメント系というか、チームプレー系のきづきが、苦手な分多かったかも!

 

あとは自分のプレゼンへの自信と改善点・・・っていう感じ!

やっぱメモがあるスピーチは退屈だ!は当たってるような気がしたけれども、その一方でちゃんと計算とか裏付けがないと聞いてる方は苦笑いみたいなね。ちーん。

 

 

長くなっちゃった!

読んでくださってありがとう、琉球大学の地域に関するデジタルウェブマーケティングの講義のことを書きましたので、興味がある学生はほっんとぜひぜひ受講してね!!と思います。

(わたしのブログを読んでくださっているのはgoogleによれば3040代女性が一番多いんだけどね!)

 

あ、最後に。

就職活動の相談にのるメンターの方の答えを聞きながら、やっぱり新卒を捨てるってなんかもったいないことしちゃったのかもなとちょっと後悔したなぁ。

(大企業で働くっていう経験はわたしの人生ではできないんかなという気持ち)

 

でも、講義おわったあと「爆発的な才能を感じたよ!」といやちょっと盛ってるかもだけど、そういうことをメンターの方が言ってくれて、わたしは今それを思い出してちょっと目がうるうるしています。

 

あ~~~~~良い経験した!!!!!ありがとうございました!!!!

いろんな方や機関の協力がなければなかったこの機会、本当に本当にありがとうございました!!!

 

<今回のことに関連して役立った本>

 

超・美術館革命―金沢21世紀美術館の挑戦 (角川oneテーマ21)

超・美術館革命―金沢21世紀美術館の挑戦 (角川oneテーマ21)

 

 これめちゃめちゃめちゃよかった!

 

もうね、めちゃめちゃよかった!!!笑

幸せだった日の考えごと

カラーセラピーのお仕事を大好きな珈琲屋さんの隅っこで。

くるくると表情のかわるお客さんに癒され、ああみんな大丈夫なんだということをまた実感させてもらった。

カラーセラピーのお仕事は、まさに「お金を払ってでもさせてほしい」ことであり、それによってお金を得られるというのがまた喜びなのである。

この感覚はうまく言えないけれども、大きな恵みのなかにいるようなそんな感覚だ。

 

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そのあと、そのまままたまた大好きなカフェにはしご。

大きめのBGMで耳のなかがわんわんとしながら、今度はアイスティーを頼んで飲んだ。

ここで働きたいなと思うものの、履歴書を書くのが億劫でまだとりかかれていない。

 

「一度脳みそを休憩させたい」と今朝facebookに投稿したばかりなのに、こんな速さでもう叶えられている。

音楽に脳をゆらされながら、その音のなかを泳ぐのはとても心地よい。

 

お昼も大好きなお弁当屋さんで同じような感覚におちいった。

あのお店も大好きだ、おばちゃんがとてもいいひとで、いつも台所にいるおじちゃんもよく喋らないんだけどでも「ごちそうさま」には、ニコニコとありがとうと言ってくれるのでそういうところがとても好きだ。

いつもお客さんで賑わっているのもかっこいいなと思うけれど、中で食べるときは人が少ないほうが嬉しいとも思う、わがままである。

かけてある音楽はクラシックだったりジャズだったりいろいろなのだけれど、とにかく壁一面にレコードが収納されているのもまたすごい。

以前一度だけ、フードフレアというイベント時にレコードをかけさせてもらい、そのときにレコードについての説明をうかがってからすっかりレコードのファンだ。

 

レコードにはロマンがあると思う。

なぜあの線からあんなに素朴な音がでてくるのか、一体全体謎だ。

(これがCDやらデータとかになると、もはや謎を超えて考えたくないレベルに達する。わけわからないから。)

線にはそれぞれ情報が彫り込まれ、その波形によって音がでるのだそう。

教えてくれたのがとても優しい丸めがねでひげという、これまた大好きなタイプの男性で、なんていうか心地の良い時間だった。

(超余談だけど、パートナーはマッチョの好青年なのでタイプと全然違うようだけれども、彼は彼で最高だ!と思う。)

 

居心地のよいひとや空間は、そこにかける思いの深さからやってくるのではないかという仮説を持っている。

カフェや、なんらかのスペース、良いホテルのロビーや部屋なんかもそう。

そこに造り手のなんらかの哲学を感じさせるようなカケラがたくさん潜んでいるとなお良い。

ついワクワクしてしまう。

こないだ名護でお世話になったヴィーガンのカレー屋さんのお店もすばらしかった。

ご夫婦で経営されているのだけれども、なんとお二人で廃材を集められ、お家を建てたのだそう!

キッチンから放射状に伸びる美しい白い流木のようなものでつくられた床のアートがたまらなく素敵だった。

 

回想一段落、お店のなかに戻る、今の自分に戻る。

今ね、お店のなかで大笑いしながら『優秀新人戯曲集1998』を読み終え、次の一冊に手を伸ばし始めたところ。

(心の中で、いやいやレポート山のようにあるのによと突っ込みを入れつつ。)

 

本を読むのは、音楽を聴くのにも似ているし、劇をみるようだとも思うし、映画館にいるようだとも思っている。

 

で、すごく面白かった。

『優秀新人戯曲集1998』の全てを読了したわけではなく目についたものをパラパラと読んでいたのだけれど、とにもかくにも最初の一本目の台本が最高だった。

門 肇「こころゆくまで。」

登場する「泥棒」と「警察」の会話たまらなく、舞台がコロコロ変わらないのもまた想像力をかきたてられ良い。

口調も昭和ちっくで愛おしく、垣間見える当時の価値観やジェンダーや政治状況なんかもまた面白さを重厚にしているよう。

井上ひさしの「ブンとフン 」を小学校のときに初めて読んだんだけれども、あの面白さに似ていた。テンポが良い。最高に良い。

 

でも、次に読んだものはもう超苦手だった。

もうとにかくレイプものは大嫌いなんだよな~、とがっくし。

岡崎京子の「リバーズ・エッジ」みたいなストーリーだった。あの二人はこういう風になっていたかな~と思ってその点は面白か・・・いややっぱり苦手かな。

 

だけれども、自分が苦手だ、嫌いだ、と思うからといって、その作品はまったく批判されるべきではない、とも思う。

自分にとってそれがフィットしないからといって、この世界にいらないというかというと、そんなことはまったくない。

合う・合わないの基準は鑑賞する側が自身のなかに持てば良い基準なのであって、それは外に出し表明する必要はまったくない。

(だから、ブログに書くのはやや矛盾している・・・ね!)

 

でも、レイプものもいやだし、極端にアニメ化されている人間をみるのもそんなに好きじゃない。

なんでかなぁ。それを書いているのが「女性」だと、特に不快感はないのだけれども、それを書いているのが「男性」とわかった瞬間になんだかすごく気色悪さを感じてしまう。

 

まあでも、その自分の陣地から出て行って「おい!気色悪いぞ!」と批判するような気持ちもまったくなく。

だってそんなの暴力じゃんね。

読まなきゃいいんだよ、あくまで自分の問題。

(教育の場とか、そういった価値観の伝承が行われる場ではちょっと違うと思うけれども。コンビニのえろ本は子供連れてるときすごいやだなと思うんだけどね。)

 

だから少し前に話題になっていた少年誌のセクハラ?問題も、別にいいのではと思ってる。

だって、プロの編集者がGOサインを出しているわけで、ならまあしょうがないというか、教科書ではなく「商品」なのだから、そこまでの責任はないのでは。

売れなくなったら答えだし、あの頃の作品のほうが面白かったよねーと言われるようになるブランディングならそこまでだし・・・。

 

どちらかというとあの話題でクローズアップされるべきだったのは青少年に向けた正しい性教育の必要性なんじゃないかと。

性に対する間違った認識を広めている!と起こる前に、「何が性か」をきちんと伝えるのは、より経験量の多い大人の役割なんじゃないかと最近よく考えている。

そして、教科書できちんと慰安婦の問題を勉強するとか、、、。

そういういろいろがくっついているような話題だったなと思う。

 

今読みかけの『ぼくは猟師になった 』(千松信也著)もはじめ3ページの時点ですでに面白いのであたり。

あたりの本に出会った時の喜びはかけがえのないもの。

この喜びを享受できるのは、幼い時から文字を読めるように物語を楽しめるようにしてくれた環境なので、ただただ実家に感謝する。

 

というわけで!徒然なる木曜日頼りでした。

頭の中にあったものが文章になって外に出るのは、ほっんとにきもちがいい。

読んでくださってありがとう。

 

今日はこのあともうお一人カラーセラピー。

最高だ。

 

<登場した本>

 

 

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

 

 

ぼくは猟師になった (新潮文庫)

ぼくは猟師になった (新潮文庫)

 

 

 

優秀新人戯曲集〈1998〉

優秀新人戯曲集〈1998〉

 

 

よみたい

 

優秀新人戯曲集2017

優秀新人戯曲集2017

 

 

こわいまま生きる。

「自分に嘘をつかないこと」

そして、「訪れる出来事をそのまま受け止めること」

それを沖縄のさきっちょで二人の人生の先輩から教えてもらった。

海にぷかぷか浮かびながら、空に描かれた大きな虹を眺めながら「こわいなぁ」と思った。

 

7月はPortland直伝まちづくりワークショップをはじめ、×Googleのデジタルマーケティング講義のプレゼンづくりや、今回のお泊まりと、「良質」なインプットの時間が多かった。

こないだ書いたこの記事のできごとも7月。

 

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面白い情報や、やり方が自分のなかに生きた知識として吸収されると共に、放っておいて見ないふりをしていた想いと向き合う日々が続いた。

イベントの連続で、つまりアウトプットの連続でハイだった6月に比べ、7月はなんだかあっという間に過ぎてしまった気がしてる。

 

放っておいて見ないふりをしていた想いというのは、なんていうかやっぱりどこまでいっても自分自身について。

そしてそこにいろいろな材料がくっついてめんどくさい考え事になっていたものを、いろんな大人がひっぺがしてくれたような感じ。

ひっぺがされたあとにのこった感情は割と素直で、かつ単純、とてもシンプルなものだった。

 

何人もの大人との会話のなかで、耳のなかにのこる言葉がある。

「生きる」ことについてのもの。

「仕事」についてのもの。

「住処」についてのもの。

「感性」や「表現」について。

そういった類のことに意識が向いている。

 

くるくると言葉が踊るまんなかで、ひとり裸で立っているような時期だった。

うまく言葉にできなくて、言葉にできない自分を面白がりながら、でもどこかひどく寂しかった。

 

いろんな大人のなかに、父をみて、母をみて、祖父をみて、祖母をみて、姉をみて、妹をみる。

それは自分の家族という意味ではなくて、単純に役割としての名前として。

ひとのなかにはこれだけ様々な面があるのかとドキドキする。

 

さっきまで父親の顔をして笑ったひとが、今は男のひとの顔をする。

さっきまでは妹だった彼女が、今はまるでお母さんのような役割をこなす。

 

それをただただ観察しているわたしは、やっぱりなんだか大きな輪から外れている気がして、少し居心地が悪かった。

 

海に浮かびながら感じた「こわい」というきもちは一体なんだったんだろう。

大きすぎる海がこわかったし、はじめて海に触れた日のことを覚えていないのもなんだかこわく感じる原因だと、久しぶりの海にびびっていたくせにお母さんに抱かれ次第に慣れたあとは、泣いていたことなど忘れてきゃっきゃとはしゃぐ2歳を見て思った。

 

海はなんだか大きすぎるんだよなぁ。

そして、いろんなものがいすぎる。

 

ぷかぷかと浮かびながら「こわいなぁ」と言ったら、耳に自分の声が水と響いて不思議な感じだった。

 

みんななんでもできる。

みんななにもできない。

 

海はこわいけど、こわがったままでいたら、大人のひとが話してくれたような宇宙みたいな景色は眺められないまま。

大きな大きな回遊する魚をしたから見るなんてとても綺麗だろうなと思ったけど、少しでもスポットがずれたら船に拾ってもらえないと聞いて、お腹がひゅんっとなった。

 

たぶん、生への執着が強いんだろうと思う。

自分なんぞが生かされていることにとまどい、でも死ぬのは嫌だと思ってる。

そういうめんどくさい自分がいる。

 

でも、こうやって文章にして、今の自分のある一部分を可視化するだけでも、だいぶ。

まあめんどくさいけど、それはそれでいいんじゃない、というような気分になる。

 

きっとたぶんおそらく、癒し終わるということはないんだろうと思う。

それは道ですれ違うひとみんなそうなんだと思う。

それぞれにはそれぞれの苦しみがあり、それぞれの喜びがある。

 

ひとの数だけ生き方がある。

まちの数だけ在り方もある。

 

きっと大丈夫だ、そう思う。

でも、やっぱりこわい、そうとも思う。

 

だけど、とはいえ、こわいまま立ち止まって、そのまま年をとるのは性分に合わない。

転びながら、かさぶたつくりながら、めんどくさい自分に茶々をいれつつ進む。

そのなかで、またどこかで、海からのぼっていく太陽を眺めてつい手をあわせる瞬間がくる。

 

「自分に嘘をつかない」は、今のわたしに当てはめてみるとすごく単純な話だった。

わたしはこれから生きていくのが、何にも所属しない期間を迎えるのが、周りのすごいひととは違うのが、そういうのがこわい。

子どもを身ごもるか身ごもらないかわからないのもこわいし、今のパートナーと離れるのもこわい。

生きていくために必要な稼ぎをちゃんと得ていけるかもこわいし、気づかぬうちに遠くにいきすぎて友達がいなくなっていたらとも怖い。

 

でも、そんないろいろこわい自分がめんどくさいけど、大切と思う。

それはなんだか、去年の自分にはなかった感覚で、そのちいさな感覚だけがあたたかい。

 

そのあたたかな感覚を思い出すために、わざわざいくつかの失敗を手に入れたのだとしたら、それもなんだかあほくさくて、ちょっと笑えた。

 

こわいまま、わたしはじゅうぶんに生きている。

こわいまま、わたしはじゅうぶんに生かされている。

 

こわがりだからこそ、たぶん、そのこわがりを超えて「つい」やってしまうことに意味を見いだせる。

 

こわいまま、生きよう。

 

そう思う7月だった。まだ、少しある7月のうちにいろいろなことに片をつけようと思ってる。

読んでくれてありがとう。

 

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8月がたのしみ。