「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

死にたいと言われて考える

口を手のひらで押さえても、言葉も笑いもこぼれてしまう。
目尻を手のひらで隠しても、ぽろぽろと涙はあふれてしまう。

感情も、言葉も、隠せるものなど何もない。

言葉と感情が一致していないと、なんだかちぐはぐな気持ちになる。
ちぐはぐは心臓までいくと痛みに変わり、全身にまわると気怠さに変わる。
それがたまると疲れてしまって、たくさん眠らないといけなくなる。

ときに嘘をつくことは必要だ。
じぶんを守るため、誰かを傷つけぬため。

でも、多くの場合のちょっとした嘘は、もう必要ない。
ひとと違うことも、当たり前のこと、当然のこと。

「生きているのがいやになる」
facebookにそうメッセージをもらったあと、しばらく考えた。

過去のわたしがそう、今のわたしに聞いているとしたら。

大きく大きく腕を広げて、「ハグしてあげる」と言ってくれた女のひと。
「生き直すなら、はるなちゃんかなって思う。」と本音をくれたひと。

そんなひとに出会えるよと、話すだろうか。

一度だけ、14歳のとき、どうしても寮から家に戻りたくなくて、持病だった喘息の薬を死ぬほど飲んだことがあった。
2、3日救急に入院するだけで済み、、というはた迷惑なことをした。(若かった)

もし、あのとき、あのタイミングで本当に命を失っていたとしたら。

日付が変わるまで、一緒に「こういう未来がいいね」と盛り上がったり。
ここが違うとか、こうやりたいと、ビジョンを共有したり。
なんでわかってくれないのと、いじけてみたり。
コロコロ変わるキブンで人を好きになったりなられたり。

そういう面白い出来事も味わえなかったのだなと思う。

そう思うと、”昔のじぶん”に湧いてくるのは、なんていうか。
ただただ抱きしめて、大丈夫だよと、ここにいるよと。
そういうことを伝えたい。

だけれども、振り返ってみると。
いつだってわたしのそばにはその言葉や態度をくれるひとがいた。
いつだって、本当の意味での孤独におちいったことはなかった。

身近なひとが葛藤のなか溺れてしまって。
その葛藤を全身で感じ、じぶんがいなかったらと思ったことはあったけど。

それだって、今ならわかる。
その葛藤が生じていた時点で、わたしはうんと愛されていた。

そういうことがわかるのも、あの瞬間ではなく、数年経ってからのこと。

そうやってジグザグと出来事の合間を意味付けしながら過ごしていく。

気づいたら100年ちょっと経っている。
若いひとに笑いかけながら、じぶんの植えた昔苗木だった木の横で死ぬ。
そんなのってちょっといいなって妄想するじぶんと出会う。

死にたいんだ、そうかそうかと、話しかけてみる。
でも、本当に本当に死にたかったら、死んでいるはず。

そんなことわかってるよ!と怒られそう、14のわたしに。
いやだ~~~。笑

簡単な言葉で思考停止してしまわないで、骨をしゃぶるようにして考え事をする。
飽きたら体を動かして、ご飯をよくよく噛んで食べる。
朝日を浴びて夜眠り、ヒントをくれそうなひとやものに出会いに出かける。

そういう単純な毎日の繰り返しの先に。
うーんとげんきになっているじぶんがいる。

死んでしまいたいって、そういうキブンだという形容詞なんだと振り返る。
味わい尽くしたら自然に。

「本当にやりたくないこと」
「本当にやりたいこと」
「やりたくないことをやめられないと思っている理由」
「やりたいことをできないと思っている理由」
が、はっきりとする。

それらの「」は、時間軸が過去か未来どちらの場合もある。

あのとき本当はやりたくなかったこと。
あのとき本当はやりたかったこと。
これから訪れるけれどやりたくないこと。
これから訪れるけれど本当はやりたいこと。

極論、毎日死んだらいいのだ。
毎朝生まれればいいのだ。

「生まれ変わった」と思うと、わりとなんでもできる。
こわいこともいっぱいある。
でも、昨日のじぶんではないというだけで氣力が湧く。

答えはぜんぶじぶんのなかにある。
じぶんのなかにないものには反応すらできない。
理解なんて殊更できやしない。

やっぱり、あのときのじぶんに声かけるとしたら。
最初は「だいじょぶよ~」と伝えるけれど。
だんだんそれに飽きて。
おい!ってなるだろうな。

おい!いじけてるのいい加減にしろよ!と。
動けよ~も~~~、ばかばか!って。
好きなことしてよ~~って。

人の役に立たなくても、お金儲けに繋がらなくても。
誰にも褒められなくても、やってみたいことやってよ~。
本当にやめたいことがあるなら、それのせいで辛いなら。
だれも責めたりしないし、責めるようなひと大事じゃないから。
早くやめて!ばかちーん!って怒るかな。

みんながわたしに怒ってくれたように。
それしか言えない。

答えは全部なかにあったけれど、それに気づくためには外からの刺激が必要だった。
ボールを投げて、跳ね返ってくる形やタイミングでじぶんの形を知る。

だからなんにせよ。
死にたいなら死んじゃっているし、生きてるってことはそういうこと。
ムキになって死のうとせずに、今に目を向けること。
丁寧にじぶんと向き合うこと。

でもそれをするには、とてもエネルギーがいるから。
まずはたくさん眠って、たくさん食べて、自然と触れ合うこと。

結局そういうことを大学4年間でたくさんしたから、わたしは「治癒」が完了したのだ。

そしてたぶん、誰かの死に直面してはじめて。死にたいというのは、「死にたいと思うほどつらい」という言葉だったとわかる。

好きなこと、生きたい環境が見つかるといいね、と思う。
わたしが大丈夫だったからあなたも、とは思わない。
わたしはわたしだったから大丈夫だった。

だけれども、それって、まわりまわると、あなたもあなただから大丈夫なはずなんだと、そういうことを思う。

 

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好きなものを食べ飲み着る!

人間的な暮らし、実態を伴う暮らし

人生フルーツをシアタードーナツで観た。
複数の面から捉えられる、誰かと感想をシェアしたくなる映画だと思った。

観たひとごとに感じるものがあるけれど、共通点もあるような。
それはきっと「人間的に暮らす」という言葉に凝縮される。

映画を観ていないひとは「人間的に暮らす」と聞いて何を連想するだろうか。
わたしだったら何を連想しただろうか。

映画を観たひとは「人間的に暮らす」と聞いて何を思い描くだろうか。
わたしは。

「人間的に暮らす」

おじいちゃんとおばあちゃんが口を酸っぱくして言う言葉でもある。
好きな時に起きて、好きな時に眠り、好きな時にご飯を食べるようでは動物だ、と。

わたしは、そうとは思わない。

好きな時に起きて、好きな時に眠り、好きな時にご飯を食べれるようであれば、いっちょ前だ。そう思うのはすこしひねくれているかもしれないけれど。

ちがうちがう。

ご飯を食べるタイミングや、眠るタイミングなどどうでもいい。
そういったのは細かい”好み”の問題で、「人間的な暮らし」には関係ない。

人間だって動物で、住まう地域や季節によって生活の様態が変わればいい。
加えて好みによって、更にそのグラデーションが細かくなればいい。

「人間的に暮らす」

人間的の対義語って何になるんだろう。
奴隷、かなぁ。

でも、やっぱり。
この考え事も重要なワードではあるけれども、今はちょっと違う。

もっぱら考えているのは「実態を伴う暮らし」についてだ。
それを説明するときに「人間的な暮らし」というのも付随する。

実態をもつ。

じぶんの考えること、感じたこと、哲学。
そういったものがきちんと仕事や生き方にあらわれているような暮らし。

人生フルーツのなかで、修一さんが言った。
「なんでも自分でやること、コツコツとそれをやれば何かが見えてくるから」

お金儲けにならなくても。
誰の役に立たなくても。
やっていたら後ろ指を指されるかもしれなくても。
その道を選ぶために行動をしたら、ものすご~い嫌な思いもするかもでも。
そして、嫌な思いをさせてしまうのがわかっていても。

それでも、今やってみたいのは修一さんの言葉に凝縮されている。

スプーンをつくってみたい。
服をもう一度仕立ててみたい。
うたをつくって、踊りを踊って、文章を書いて。

じぶんの手でどんどん何かをつくってみたい。

飽きるまでそれをしたら、なんとなくわかる気がする。

いよいよ世捨て人コースまっしぐら。
叔父さんがそう笑うような気がする。

前だったら、おじさんがそう言ったときに、怒ったりムッとしたり。
でも今はそう思って笑ってしまう。

世捨て人まっしぐら。
でも、ま、いっか!と思って、笑ってしまう。

おじいちゃんが「お前が幸せになる道を選べ」と言った。
それを思い出す、きもちのよい朝。

やってみたいんだからしょうがない。

頑張って頑張ってすり減っていくよりも。
やってみたいと思ったこと、ひとつひとつ実現しよう。

と、いつも思考は身体の後ろからついてくる。
もうその方向に歩き始めてから、じぶんの動きを言葉で理解する。

不思議だなぁ。

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まずは、じぶん。

まだ樹木希林の声がするような気がする。
今日はカフェがお休みで、パッと飛び起きてタクシーに飛び乗って、沖縄市へ。

シアタードーナツで「人生フルーツ」を観た。
津端修一さん、英子さんの暮らしを映したノンフィクション。
なのに、なんだかジブリの映画を一本観終わったようなキブンなので不思議だ。

どういう風に感想をかきとめようかと迷っているうちに、机の上に届けてもらったハーブティは少し冷めてしまった。

沖縄市って来るたびにお店が増えていてとても楽しい。
ITのひと、絵を描くひと、音楽のひと、食べ物のひと、ホテルのひと。
いろんなひとたちが混ざり合い、何か始めるんだという気概に満ちた場所。

映画のことは、映画の感想をしっかり書いてみるということがしたいから、一旦横に置いて。映画を観たおかげで刺激され、ちょうどよくまとまり始めた考えごとパラパラと。

一番ヒントになったセリフ。

「なんでも自分でやること、コツコツとそれをやれば何かが見えてくるから」

フランク・ロイド・ライトの名言も登場したりして。
学園の建物を思い出したり、木々の姿を感じ直したりして。
わたし、贅沢な環境のなか、大人になったんだなぁと改めてしみじみと。

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3歳から15歳まで暮らした場所。

でも、もう「感受性」やら「感性」やら「愛されてる」やらを前提にして、どんどん創造してどんどん前進したい!と思っているのだ、最近、常日頃。

一目で恋に落ちてしまった不思議なお姉さんが「17で人生を人のせいにしないと決めた」と話していた、こないだ。
17。
わたしの人生が大きく大きく変わったのもあの年だった。
真夜中、車に荷物を全部詰め込んで。
涙を流す暇もなかったなぁ。
だなんて、まだ23年ぽっちの人生だけれども。

今何がやりたいかってはっきりいない。
どんな暮らしがしたいかもはっきりしない。
どんな風に生きていきたいかもわからない。

だけれども、ずっとずっと前よりも生きているのが楽しい。

そして、何かをつくってみたくて仕方がない。
スプーンでしょ、お箸でしょ。
お皿も作ってみたい。
洋服ももう一度縫ってみたい。
家も建ててみたい。

かーこさんが勧めてくれたように絵本も描きたい。
そのために隙間の時間が欲しい。

そんなじぶんの声を静かに受け止めて。
”しゅうさん”の言葉に背中を押されて。

夏以降の生き方を変えることをしっかり決めた今日。

稼ぎは少し減るけれど、いいでしょう。
それが何につながるかもわからないけれど、いいでしょう。

「なんでも自分でやること、コツコツとそれをやれば何かが見えてくるから」 

きのう、きょう、あした。

きのう、きょう、あした。

 

 

ーーー

「元気なうちに、ありがとうと言えばよかった。」
一度も見たことがない朝ドラのセリフを3回も人づてに聞く。

人生フルーツのなかで、修一さんを見送る。
わたしもやがて死ぬ。
だけれども、その前に、きっとおじいちゃんおばあちゃんがいってしまう。

(わたしが生きてるよりもよっぽど彼らが生きるほうが人のため世のためになるだろうと思う。)
(でも、そんなこと言ってたって仕方がないし、遠回りな自己憐憫でしかないから、ため息つきながらよりよく生きよう。)

元気なうちに、言えばよかった。
そう思う言葉を伝えに、今月末は愛知に里帰り。
お正月ぶり。

車に乗るたびに、運転しているひとを眺めながら「この車で死ぬとしたら」と考える。だけれども、今日初めて「そんなこと言わないで欲しい」と思う誰かの言葉が胸に沸く。ひとりで生きているように錯覚するけれど、この人生、わたしだけのものではない、と改めて実感した瞬間だった。

でも、よりよく生きるため、世のためになるような生き方ができるためには、まずじぶんがとことん幸せにならんといかん。

そこを、ほほえみ浮かべてこめかみ引きつらせて生きていっても、散らかった「我慢」のかけらが邪魔をする。

まずは、じぶん。
それから身近なひとたち。
同時進行で、消費の仕方を考えて、遠くの人たち。
この星のこと。

じぶんを耕すのと、何も実らない土地に手を入れ草木が茂る豊かな土地にするのとは、似てる。

まずは、じぶん。

外面と細胞分裂


近頃は、”外面”ばかり考えている。


お化粧は数ヶ月に一度、特別な相手に会いに行くときだけ。ヒールのある靴を履くのも同じような頻度。


それは、お化粧もモラルのうち、というのはなんだか気持ち悪いなと思ったから、まあいいだろ、と考えてのこと。


着るものも朝見てパッと目に飛び込んでくるものを着るので、だぼだぼのジーンズにTシャツのときも、ピタッとパンツにブラウスのときも、ワンピースのときも、するするのズボンのときもある。


"男の子" "女の子" "男のひと" "女のひと" 容易にカテゴライズができてしまうそれぞれの要素が自分の内にあり、その割合がバイオリズムのように波打っているので、日々着たいものが異なるのだと思う。


ときどき、カテゴライズしづらい、強いていうのであれば"動物"だとか、"ただ存在している何か"とか、そんなキブンのときもある。


これは、裸でお布団のなかに潜るか、湯船(があれば)本を何冊も持ち込んで引きこもるか、そんな風にして過ごす。


そんな自分なのだけれども、ここ最近もっぱら考えているのは、さっきも書いたけど"外面"についてなのである。


要因はいろいろある、、、でも、たぶんおそらく、いつも褒めてくれていたパートナーのひとが東京へ行って、日常的に自信をつけられていない→努力せねばというようなネガティブ発なのももちろんある。


だけど、もっとも大きいのは、なんだかじぶんの内側がもぞもぞと変わり始めたのを感じていて、そのもぞもぞにぴったりの"皮"を被りたいのだと思う。


変わり始めたのは23歳になってから。石垣島の途中でなんだかもぞもぞが始まった。

 

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そういうことってあるのだきっと。


もぞもぞに任せて、ラートを再開し、もぞもぞに任せて新しいお仕事をお引き受けするために環境を整え始めている。


夏ぐらいには、新しい皮が馴染んで、今よりもっともっと素敵になれているといいな。


どう在りたいのか、と、どう見られたいのかが交錯する"外面"という言葉が面白い。


外面よくしよ、ついついベロが出ちゃう考え事だね。おほほほほ。


Tシャツに短パンでも、美しさがにじむようなひとになりたいし、ワンピース着てても、いやぁ似合うねと言われるひとでありたいし。


どんな人で在りたいかな、どう見られたいかな。


お化粧したらどんな印象になるかな。


髪を整えたら。


女の身体に生まれた意味は、この顔に生まれた意味は、なんだろな。


新しい皮をつくるときの感覚って細胞が分裂していく過程と体感が一緒。だんだん分化していくのが楽しい。


こっちになろうか、こうしてみようか。


マクロもミクロも同じこと。愛おしい細胞分裂。核と核が出会ってスパーク。命の始まり。


笑っちゃうくらい、今は生きてるのがたのしい。明日がどうかは知らないし、落ち込むのも好きだけど。センチメンタルは贅沢。


考えて感じて動いて。

明日は森でお散歩。

起きれるかな、もう眠ろう。

と、思う午後であった。

心がパラパラとしてる
チャーハン的な、
ただパラパラとしている

まとまらない思い、感情
考え事も散らばって
部屋の真ん中で途方に暮れて

いったいぜんたい
どうしたらいいだろか

大きな大きな視点
町も国も星も飲み込んで
銀河宇宙へゴー!な

ひゅんひゅんひゅんと
パーマンポーズで進むのだけれど
宇宙のまんなか途方に暮れて

あれあれあれれと
星、国、町、今ここへと
戻り戻って細胞のまんなかへ

ここはあたたか居心地がいい
背伸びをしなくてももう十分
でもでも気になる明日の行方

パラパラでもいいじゃない
やりたいことやったらいいじゃない

失敗してから考えて
後悔しながら進んでいけば

好きも嫌いも飛び越えて
きっとどこまでだっていけるはず

ほんとはもっと

ほんとはもっと

ほんとはもっと

ほんとはもっと身軽なんだけど
送らなければよかったメッセージとか
読まなければよかった手紙とか
やりきれなかったお仕事とか
そういうものが足首からぶらぶらと
ちょびっと重しになっている

ひとつひとつ外してこ
過去なんて、過去でしかないのだから

と、思う午後であった。

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きっとあっという間に年をとる。

ほんとの美しさって
たぶんきっと身体の内側から
にじむものだと思うから。

年を重ねたわたしをみて、
ああ今のわたしよりも恋人にしたい、と
わたしが思うようなわたしになりたい。

失敗したくないから、
選択をするのがいつもこわい。

でも、選択をしなかったら、
退屈な毎日に埋もれてしまう。

そっちのほうがもっとこわい。

きっともっと面白く生きられる。
面白さは伝染して、みんなもたのしくなる。

ああもう少し、もう少し。
もう少しだけ、勇気がほしい。

何を選んでも正解にするのだ、と
思えるようなアグレッシブさがほしい。

でも、うじうじしながらでも進むから
「よくやってるね」と、
ときどき思い出して褒めて欲しい。

頭をなでてくれるひとの手がなくても、
もうたぶん大丈夫だから、
まっすぐに背筋のばして生きていきたい。

「人間に生まれてよかった」と
嬉しそうにいうひとの顔をしばらく眺めて
その言葉を唇でなぞって、、、

ああ!わたしも言いたい!
「人間に生まれて、よかったー!!」って
言いたい!!

もっともっと、言いたい!!

心の底から、そう思って言いたい!

人間に生まれてよかったと。
この身体でよかったと。
あなたに出会えてよかったと。

一歩踏み出すための準備をする4月。