「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

うまくいえないけど書いてみたかった「出来事の起きる意味」の話

ぼんやりと夏の終わりを感じながら、歩く。

ゆるやかに空の色が変わっていく様子に心が踊る。

 

大切な人の旅立ちの日にちを知ると、その人と今当たり前に過ごせる時間があたたかいものに変わる。別に、普段一緒にいるひとだっていつどこへ行くかもわからないのに、「知る」だけで意識が変わる。

 

ずっと当たり前に日常が続くことへの執着が強いなと自分を見下ろす。

でも、それが悪いことなわけではないなと見つめ直す。

 

大切な人に「大切だ」と伝える。

好きな人に「好きだ」と伝える。

 

伝えて何かしたいわけでも、伝えることで何かになれと思うわけでもなく、ただ伝える。

 

すべての出来事、出会いには意味があって、あまりにも意味がありすぎるものしかないので、その意味を探すことは一周して無意味だなと思う。そのなかでもやっぱり、人との出会いは格別に意味が強く、その意味は無意味とも思えるほどの量のメッセージのなかでとりわけ強く人生を揺らす。

 

あのタイミングであの人に出会えなければ。

あのタイミングであの場所に出会えなければ。

 

まちがいなく今の自分はここにいない。こんな自分にはなれていない。そう思わせる出会いがある。それはポジティブな出会いだけではなく、ネガティブなものもある。

 

全く好きではないひとに体を触られた経験のあとに、好きな人に体を触れられることの幸せを知るように。湯水のように与えられるお金を使ったのちに困窮し、何もかも無くした後、やっと積み重ねることの重要さを知るように。

 

自分とは違う考え方で自分の身体や表情や仕草を「記号」として捉え行動するひとがいることを知る。その一方で、自分の考えや感じ方を慮りコミュニケーションを取ってくれるひとがいることを知る。

 

反対のようにみえる出来事はどれも、大切なことを教えてくれる。

 

意味のないものなんてなくて、でもあまりにも無意味なものがないので、意味を掘り下げることのほうが無意味なように思える。

そのままをただそのままで受け取る。

言葉も、経験も、出会いも、奇跡も、メッセージも、失敗も、成功も。

 

今この瞬間にも、所狭しといくつもの未来が浮かぶ。

同じように、ぎゅうぎゅうと過去も浮かぶ。

 

今の生き方次第で、感じ方次第で、考え方次第で、それに即した未来が選ばれ、それに沿うような過去が選ばれる。過去も未来も出来事への解釈でしかなく、その解釈が変わっていくようなイメージだ。

 

だからこそ、今を信頼して身を委ねたとき、こんなにも生きていることは嬉しいのだろうと思う。そして、その状態にあるとき、人からの声は選んだものしか耳に入らない。誰に傷つけられるかさえも自分が選べる。誰かからの声で傷つくのだとしたら、それは自分が自分の自分への思いや仮定によって傷ついているだけのこと。

 

その枠の中から一歩出れば、本当に自由な景色が広がっている。

信頼して身を委ねることを知るために、今まではきっと一度全てを握りしめ抱え込み呻くような「反対」を知らなければならなかった。

でも、もうそういう時代は終わり始めているし、実際もう終わったのだと思う。

 

これから先は、勝手に自由になり、勝手に幸せになる時代なのだと、そういうことを思う日だった。

そして、それを思わせてくれる大切な出会いに感謝しながら、わたしはわたしらしく在ろうと思う間も無くわたしでしか在れないのだという当たり前のことを実感する日でもあった。

 

良い日だった。ありがとうと思う日だった。

 

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自分の人生を生きている様子を発信するということ

ブログを書いては消し、書いては消し、を繰り返している。

カラーセラピーのお客さんが60人を超えたくらいで、「我を消すこと」を覚えた。今までは感覚的にやっていたそれが、お客さんたちのおかげで自分の発言が「我」なのか違うのかがわかるようになった。

 

「我」を消すことになれると、今度はブログが書きづらくなった。なぜかというとこれは「我」の塊のようなものだけれども誰かに読んでほしいと思いながら書いている文章だからだ。そして、誰かに響く文章というのは、やっぱりどこか「我」を超えたものがあるような気が過去のブログのアクセス量の推移からもわかるような気がしている。

 

「誰かのために」何かをするというのは大抵うそだと思っていて、それはその思い自体が「我」であるからだと思っている。それがわかるのは、自分が「誰かのために」を頑張ってみた時期があるからだ。それも10年近く。

 

でも、いつのときだって「誰かのために」はわたしを幸福にしなかったし、周囲のひとも幸福にしなかった。そして、それを諦め、自分のために生き始めた時、最初はやり過ぎてしまって「行き過ぎだ」と嫌われ離れていくひともいた。だけれども、ちょうど良い塩梅になってきた頃、わたしの周りのひとは以前よりも幸せそうに見えた。

 

「我を消す」というのは、何も自分以外の者になろうとすることではない。自分というフィルターを通して、底の方から情報を流すようなイメージだ。ずっとずっと身体の底、そこはたぶんユングのいう超自我のようなもので、みんなが共通してもっているとされる「共通的自意識」なのだと思う。(共通意識だったかな、用語はどうも覚えられない!笑)

 

誰かに読んでほしいという欲求が1記事目から溢れ出ているわけだけれども、50記事を超えたくらいで「伝えたい何か」が溢れてくるようになった。そしてそれは自分と向き合い、人生の純度を上げていくという課題のなか、わりと大勢のひとの反響をもらうものに。

 

読んだ人が「きもちが樂になりました」とか「生きるのが楽しくなりました」とか、そういうメッセージを届けてくれるようになったのもこの頃だったし、心屋仁之助さんがシェアしてくださって一日に1万人とか2万人とかのひとがブログを読んだのもこの頃だった。

 

でも、まあそのあと調子に乗ってしまい、やや尖った。「この生き方がいいのかもしれない!」と思って偏った生き方のことばかり書いていた。そして、アクセス数もそれと共に減少し、全盛期?だったときの記事へのアクセスが主な時期がわりと最近まで続く。

 

そのタイミングで叔父から「今、お前の発信は尖っていないか?」「尖っているかどうか判断するのは簡単だ、童話を書いてみろ」「お前は誰もがニコニコしてしまうような、子どもに読みたいと思わせられるような童話が書けるか?」と言われ、がちょびーん!となる。

 

書けないなと思ったのだ。

 

その頃から、より自分としっかりと対峙するようになり、日々湧いてくる言葉について、会話について、出来事について、いろいろな目から読み解くようになった。この読み解きが終わったとき、ハッキリとわかったことが「等身大に書く」ことの大切さと、「自分を生きる」ことの重要さだった。

 

そして、その気づきを大切にしながらブログを書いていったところまたアクセスが戻り、よろこんでくれるひとも増え、カラーセラピーのお客さんも増え、何より自分も生きていくことをよりエンジョイできるようになった。

 

画を消せば何もかもうまくいくとかそういうことが言いたいのではなく、今はなんだかブログがちょっと書きづらいんだけれども、でもこの「我を消す」感覚はわりと気に入っているし、これはこれで人の役に立つんだなということを実感していて、面白い。

 

自分を生きることで人生ってこんなに楽しいのか!と実感して、それを発信する。そのなかで気づいた普遍的なことはしっかりと書き必要な誰かに届ける。そして、その生き方をみたひとが「このひとに会いたい!」と思ってくれたひとがカラーセラピーで会いに来てくれるし、その全体的な様子をみている誰かが司会のお仕事なんかをくれる。

 

いい感じだ!

 

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これこないだ司会のお仕事したとき!ちょー緊張した、体型が少しずんぐりむっくりだなぁと思ってちょっと落ち込んだけど、楽しそうな顔でよかった。笑

やっと、人生の純度100パーセント。

「もしも許されるならば」

 

ふとしたときに、道を歩いているときに、夜寝る前に、おなかが少しすいたときに。

そういうちょっとした隙間に頭に浮かぶ言葉はいつもそれだった。

 

「もしも許されるならば」

 

誰の許可をなぜ求めていたのか、いつ求めていたのか、何をしたいのか。

その言葉が浮かぶ頻度は年齢を重ねるのと比例して減っている。

 

「もしも許されるならば」

 

その言葉の重たさに戸惑う。

でも、この言葉は物心ついたころからずっと共に歩んできた言葉だという認識もある。

 

「もしも許されるならば」

 

家族に?違う。

環境に?これもまた違う。

 

「もしも許されるならば」

 

今日、沖縄の南部の田舎で道に迷い、連絡手段も持たずに家を出て、歩いているひとに聞こうかと思ったら予想以上に田舎で誰も歩いていない。そんな道で出会ったひとりのひとに助けてもらった。

そのひとは親切に車で目的地まで送ってくれた。

 

ウクレレの先生のおかげで、超つたないけれども人前で歌をうたう経験をさせてもらった。

みんなが笑いながらあたたかく聴いてくれた。

 

「もしも許されるならば」

 

知り合いの素敵な夫婦の子どもと久しぶりに会えた。

わたしは彼が大好きで、言葉でのコミュニケーションはまだなかなかうまくいかないけれど、身体で会話を楽しむことができる。

 

「もしも許されるならば」

 

こわいと思っていたこの言葉が、自分対自分のコミュニケーションだったとカラーセラピーのお客さんのおかげでわかる。

 

わたしが許されたいと思っていた相手はずっと自分自身でした。

そして、枕詞は「こんな自分でも」だった。

 

「こんな自分でも、もしも許されるならば」

 

その続きに来る言葉は「◯◯がやってみたい」

 

「こんな自分でも、もしも許されるならば、◯◯がやってみたい。」

 

わたしは今22歳で、とんでもない財力は手元にないけれど、でも、大人です。

何かをやりたいと思ったら、誰かが応援してくれて、誰かが叶えてくれる。

 

もう、なんでもできる「大人」になれました。

あの頃、とってもなりたかったおねえさんになりました。

 

行きたいときに行きたい場所へ行き、食べたい時に食べたいものを食べ、会いたいときに会いたい人に会いにいく。

 

そんなことができる大人になれました。

 

まだ、叶えられる範囲には制限はあるけれど、それは今の暮らしを樂しむために自分が自分で設定した制限。

 

安堵の喜びを知る為に不安があるのと同じこと。

 

自分の人生の純度はどれくらいですか?という質問に出会ってから2年が経ちました。

数え切れないほどの出来事、喜びも苦しみも、信じられないようなひどいことも。

 

2年を経て、わたしの人生の純度がやっと100パーセントになったのが今日でした。

とても軽い、心が、身体が。

 

できないことがなくなったわけじゃない、失敗をしないわけじゃない。

苦しいことが起きなくなるわけじゃない、つらいことに出会わなくなるわけじゃない。

 

ただ、轟々と音を立てて大きく大きく流れる水流のような時間の流れ、出来事の波のなか、溺れることを恐れ浅い呼吸をしていた自分から、しっかりと二本の足で立ち、大きく胸を開いて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 

そんな自分へと変化したことを喜んでいます。

 

少し前の自分だからできたことがあった。

届けられる言葉もあった。

 

同じように、今の自分だから伝えられることがある。

届けられる言葉がある。

出会えるひとがいる。

 

そして、新しく進むべき道がある。

 

2年間ずっと誰かがいつも寄り添ってくれていたことを、親しいひとの旅立ちの日が決まったことでたくさん思い出しました。

あのとき、あのとき、あのとき、支えてくれてありがとう。

 

あのときに何時間でも連れ出してくれたあなたのおかげで今のわたしがあると、わたしはしわくちゃのおばあちゃんになっても忘れないんだろうなと思います。

 

ありがとう。

 

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新卒を捨てることから生まれる「置いてかれる感」- 就職しないで生きるとは -

いろんな生き方、働き方をしているひとが周りにいるけれど、わたしが履いているわらじはただいま4足。働き始めて1ヶ月もたたないカフェでのお仕事、カラーセラピーのお仕事、書き起こしのお仕事、ホームページ制作のお仕事の4種類。ここに1~2ヶ月に一度のペースで司会のお仕事をいただいたり、ライティングの依頼をいただいたり、CMやラジオのお仕事をいただいて生活してる。

 

ちなみに今日はお仕事じゃないけれど、人生で初めてステージで歌をうたった!超たのしかった。

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カフェでのお仕事はスタッフとして雇用されているけれど、カフェ自体が会社ではないので「社員」ではないので、今の社会でいうような「就職」はしていない。でもそれは仕事が嫌いだからとか、企業に属したくなかったからとかではない。

 

はたらく」ということはとても好きだ、ご飯を食べることや思う存分眠ることと同じくらいに好き。そこにあまり理由はなく、「お仕事だ!」と思うとテンションが上がるものしか今身の回りにないので、それってとてもいいなと自分自身では思ってる。(もちろん日によって布団から出たくなくて泣く日もある。)

 

就職しなかったのはただ単に「やりたいこと」を絞りきれなかったから。そして「とりあえず」で調べて見たものの「とりあえず」で面接を受けようと思う企業を探し抜けなかったこと、会社に属さなくても今の自分がやりたいことは自分でかなえていくことができると思ったからだった。そして、その選択は間違いなかったと思うような生活を今の段階ではしてる。

 

でも、落ち込むときもある、というか、なんだかぽつんと孤独感を感じるときがある。そして「就活をしてたらこんな気分にはならなかったんだろうか」とちょっとだけ考えてみる。こんな気分というのは同年代のひとに置いていかれてる感じ。でも、就活をして内定をいただきという未来を想像してみてもぜんぜん上手に想像できないのでその孤独感については日常的にはわりと放り投げているんだけど。

 

この「置いてかれる感じ」は人間の人生を歩む上でなかなかの曲者だ。カラーセラピーのお客さんもよく「やりたいことには気づいている、でもその選択肢をとって同世代の流れから外れてしまうのがこわい」と話してくれる。わたしは完璧人間としてカラーセラピーをしていないので一緒になって「本当にねぇ」と話を聞く。でも聞いてるうちにお客さんは勝手に「でもそれでもやりたいからやります」だとか、「やっぱりただ周りに構って欲しかっただけみたい、やめます」だとか答えを出して帰っていく。

 

わたしも時々不安になるけれども、おおむね「置いてかれる感」にのまれることなく毎日たのしく暮らしている。のまれずに生活できている理由はその不安がどのようなもので、何から生じていて、今の自分はどういう状態かを把握しているのと、感情を感じ切ることができるようになってきたので「不安」と共存できるようになったからだと思う。

 

さて、この「置いてかれる感」はいろいろなところに根本的な発生要因がある気がするけれども、そのなかのひとつには「規範」がある。社会のなかでこうしなければいけない、こう振舞わなければいけない、さもなくば村八分にあって飢え死にする、的な見えないレール・ルールの思い込みだ。自分のなかにも重たくジャラジャラとした鎖のような規範がいろいろある。

 

たとえばそのうちのひとつとして「だいたいのひとは新卒を捨てないほうがいい」というもの、つまり「やりたいことがハッキリしていない場合はとりあえず就職したほうがいい」という思い込み、これをもっともっと掘り下げないと「新卒を捨てるのは損だ」と「実績・才能がないと独立できない」の二つがでてくる。

 

だけれども、これらの思い込みは嘘だ!と断言できるような情報が今の自分のなかにはもう蓄積されていたことに最近ようやく気づけた。だからこそ「置いてかれる感」にのまれることがなくなったのだと思う。ちょっと前までの自分って不安になんてならなくていいのにわざわざ不安の材料をみつけて「ひぃ~~~」って楽しんでいた変態だったわけ。ひ~~~。

 

まず、「実績・才能がないと独立できない」は嘘。だって、同年代の優秀なひとがしっかりと自分と向き合い人生を想像し就活をして、ちゃんと就職していく様子をわたしは近くで眺めることができた。そして彼らはほとんどのひとは大変そうだけれども楽しそうに働いている。

かつ、書き起こしのお仕事を通じて知った何十人もの会社員のひとたちもみなとても優秀で、持っている力のタイプや性格によって組織のなかが上手くいくひとが、ナンバー2がうまくいくひと、したを育てるところで一番能力を発揮できるひとなどさまざまなひとがいた。

 

つまり、「実績・才能がないと独立できない」というのは、どこかの段階で身についた「独立神話」みたいなものによって生じた思い込みだった。もちろん上に書いたことをひっくり返せば組織に属さないほうが能力が発揮されるひともいれば、企業をいくつかつくってそれを経営するのが得意なひともいる。そう、ただ単にタイプの違いの話でしかない。

 

でも、そのタイプってどうやって知るの?結局経験数が少ない「学生」は、とりあえず「社会人」として働く経験を積んで自分のタイプを知るのがいいんじゃないの?という発想から「新卒を捨てるのは損だ」という考えが生まれる。

 

だけれども、もし、新卒だから就職するのが当たり前だからと必死になって就活をして就職をすることに違和感があるのであれば、立ち止まっても全然問題ないんじゃない?ということを思っていて、現にわたしは立ち止まっている。

 

ちょっとまだ途中の考え事だけれど、でも、今、仕事はいろいろ、好きなこともいろいろで、お休みの日も仕事の日も楽しい今の自分を考えると、この「置いてかれる感」は今の自分が等身大に感じてふつうの感覚だけれども、その不安に押しつぶされる必要性は全然ない。

 

不安になってもいい。「置いてかれる感」のなかでもがいてみてもいい。

でも、確かなことは、ちょっと壮大な話になっちゃうけど、この世界でこの座標で人生を観測できるのは自分しかいないわけで。だから、本当に不安も喜びも起きている感情って何にでも問題はなく、かつ、どんな経験をしていたとしても、前提として「だめ」ということは全くないんだなと。

 

唯一思うのは、わたしは幸福に暮らす方が好きなので、不安はスパイスとして使いつつ、でも全体的にはまるっと楽しんで暮らしていこうということでした。

 

あんまりまとまってないけど、おしまい!

 

カラーセラピーのメニューandお申し込みはこちらから

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<メニュー内容>

カタカムナと呼ばれる音に込められたエネルギーを読み解く知識を用いて「名前」に込められているヒントや、マヤ暦のなかでも13の月の暦と呼ばれるものを用いて生まれ持った能力や人生のエネルギーの流れをお伝えします。

加えて、14色のカラーボトルを用いて色を使って現在の状況やお客様ご自身について言語化をし、今の状況を見つめ自分と向き合い、どのように在りたいかという望みを明確にするお手伝いをします。

1時間以内でできることでも十分だと思いますが、より具体的な相談事(進路や人間関係など)がある場合は1時間以上をおすすめしております。

 

癒したいことがあるお客様もいれば、ただただ自分について知りたい!!というお客様もいます。

現在17歳から60歳までのお客様とお会いしたことがあり、昨年12月から累計で50名様を超えました。

 

どんどんパワーアップしていくので、ぜひピンとくるタイミングで会いにきてくださいね!

 

料金は1時間5000円、1時間以上は+2000円です。

キャンセルは当日連絡の場合のみ一律2000円いただいております。

 

1時間でできること

・生まれ持った強みや、力をお伝えすること

・現在の状況について俯瞰してみつめること

・心や考え方、感じ方の癖を言語化すること

・「どのようにありたいか」を明確にすること

 

1時間以上(最大2時間)

→1時間でできることに+アルファのイメージです。

・どのような未来を生きたいかを明確にすること

・心や考え方、感じ方の癖を変えること

・引っかかっている過去について見つめ、清算すること

・他、環境や人間関係、家族やお仕事についてなど幅広く相談にのります

お申し込み

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自分のセラピーに自信を持つまでの道のり(0円から5000円になるまでの道のり)

カラーセラピーの資格をとったのは昨年の5月28日。

大好きで本当にお世話になったひとにお誕生日プレゼントでカラーボトルをあげたい!ところから始まり、そういえばこないだ読んだ「未来の?わたし″を思い出す 愛される心のつくりかた」の作者さんカラーセラピーの先生って帯に書いてあったな、うわ誕生日の日に講座やってるやん、予定あいてる?あいてる!、受ける?受ける!という流れで東京へびゅーん。

 

白石美和さん(びわっちさん)のカラーセラピーの講座は本当に面白くて、自分の感情と向き合うというところでも勉強になり、めちゃ受けてよかったー!とそのときは「受け手」としてすごい満足して帰りました。(プレゼントした相手のひとも綺麗なボトルに喜んでて嬉しかった。笑)

 

それで帰って来てからもぼちぼちと友達相手に遊びでやっていて、でもお金をもらおう~とは思ってなかった。お礼でカフェラテを奢ってもらい始めたのがそれから数ヶ月たった12月のこと。照れながらお礼でもらっていました、その頃がだいたい10人目とか、12人目とか。それはそれで「カラーセラピーってなに~~当たる~~なんじゃこりゃー!!」みたいな面白さを友達が喜んでくれるのが嬉しくて、楽しかったなぁ。

 

で、500円になったのが年明けてからだったと思います。このタイミングでもいろんなひとが受けてくれて、大学の友人だったり先輩だったり後輩だったり、先輩のお姉さんだったり。相変わらずお金をもらうのはなんだか照れくさいなと思いつつも、でもカウンセリング中にわかったことや、これが効くだろうなと思った自分の知っている知識だったりを惜しみなく伝えるということをやり始めたのもこの500円の頃でした。

 

その頃に、3000円という金額を支払ってくれたひとがいたんですね。当時の金額の6倍です。すごくびっくりしたし、なんでこの金額を支払ってくれたのかと聞いたときに「このセラピーをしてくれている時間以外の労力にお金を支払いたいと思った」と、カウンセリング中に紹介したマヤ暦の考え方や、心屋仁之助さんの考え方や心理学のことなどいろんなことに対してお礼を支払ってくれたんですね。

 

なんだかすごく感動してしまって、そのときに「目に見えていない部分に対してお金を支払う」ということを学びました。よく本とかに「スタバが高いのは空間が高いのです!」みたいな記述があって、うんうんわかるわ~って思って読んでたけど、本当にはわかっていなかったんだなぁって。この空間を維持するためにたくさんのひとが力を発揮していて、その発揮に対してお金を払ってるんだなとそのときにしみじみしたのをよく覚えています。

 

それから値段を1500円にあげて、それからはわりと本気で「今の自分ってどうなんだろう?」みたいなことを考えているお客さんとか、身近で就職活動に悩んでいる同級生の友達とかが口コミで受けに来てくれるように。その頃に、アメナルミチに出会い、目に見えないことをしっかりと商売としてやられている信頼のできるひとにも何人にも出会い、カラーセラピーがちゃんとしたお仕事になりうることを知ったんですね。

 

今まで、目に見えないものについてお金をもらうことに罪悪感があった自分から、お金をもらってもいいんだ!という自分に変わったのがこの時期だったと思います。

 

尊敬している起業家である先輩もカラーセラピーを受けてくださって、そのときに先輩が「価格をつけることから逃げるな」というメッセージをくれたんです。定価の1500円よりも多く支払うことはできるし支払ってあげたいけれども、それよりも「値段」を決める勇気を持って欲しいと話してくれました。

 

そこに自分がどれくらい価値があると思っているのかをしっかりと見極め、ちゃんと正々堂々と提示する。

 

その重要性をそのときのカラーセラピーから学びました。でもまだうじうじしていて、でも~~とか、多くもらえるひとは価値を感じてくれてるひとだから、多くもらえるひとからもらえればいいかな~とか本音っぽい言い訳をして、1500円のまま続けていました。

 

でも、だんだんとカラーセラピー後に疲れが目立つように。お客さんは嬉しそうに帰っていくけれど、帰り道の自分の顔は明るいようで暗い。なんでだろうと思ってよく考えてみたら、割に合わなくなっていたわけです。自分の出しているエネルギー量といただくものがあっていない、だからくたびれてしまう。

 

大好きだな~と思ってたカラーセラピーのお仕事でなんと「損してる」気分になっていたわけです。大好きなお仕事なのにこりゃいかん!と2500円に値上げ。

 

500円の頃からしたら5倍です。これじゃあお客さん来てくれないんじゃないかと思っていたけれども予約は途絶えることなく、一週間に1~2回は必ず予約が入り、口コミでだんだんと知人の知人くらいのひとが受けに来てくれるようになりました。

 

その頃にもう一度マヤ暦を学べる機会をいただいて学び直し、自分でも学びや解釈を深め、占星術や数秘なんかも学び出しました。そこで改めてひとが誕生日や名前にヒントを込めて生まれてくることを理解して、もっと自信を持ってそれらをお伝えしたり、そこから今の状態を紐解いたり整理したりということができるように。

 

そのあと3000円に値上げして、3500円に値上げしてと、ちょっとずつ自分の疲れ具合と「損した!」と思うかどうかをきちんと見定めて値上げを繰り返しました。そのあとアメナルミチでうさと展という素敵なイベントの横でカラーセラピーをさせていただいて、そのときに自分の今できる全てのことを全部やったんですけれど、お礼として10000円をいただいたんですね。

 

そしてお客さんが何度も何度も本当に癒された、ありがとうと言ってくれて。そのときに初めて自分がしていることの大きさを理解しました。お客さんの持って生まれたエネルギーに触れ、流れの滞ってる原因になっている過去に手をいれ、手が触れそうな未来をしっかりと言語化して手で掴める形に変える。その作業にお客さんが価値を感じてくれている。

 

自信を持とうと思ったのはこの日でしたし、自信を持てたのもこの日でした。

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そこから値段を5000円にして、お客さんが減ったら値下げしてみたり、でもなんか違うなと思ってまた5000円に戻したり、で、今は5000円に落ち着いています。

お客さんは途絶えることなく、むしろ増えていて、3ヶ月に一度気持ちのクリーニングに使ってくださる方や、大きな節目の前に受けてくださる方、さまざまです。

 

値段とともにメニューの内容も変わり、今は自分のできることを全て出し切るためにメニュー内容はつくらず、時間で区切りできることを全てするようにしています。もともと出し惜しみはできない性格で、金額でコースを分けてもお客様の顔みたらやっちゃってたので、なるべくしてこの形です。笑

 

最近はどんどん感覚もよくなって、お客さんの状態をイメージで感じることも増えました。でもこれはやっぱりなんだかちょっと怪しい話になってしまうので、これからもメインは「カラーセラピー」という心理学、統計学に基づいたものを用いようと思っています。(簡単な箱庭療法みたいなもの、心理学の療法のひとつですね。)

 

というわけで、1ヶ月に10人弱のひとと毎月お会いするようになれて、今のわたしは嬉しいです。そして、これからもお客さんと一緒に自分を大切にする方法や、自分の本音に気づく方法、そして本当にやりたいことへ向けた小さな一歩を踏み出すための時間をつくりだしていきます。

100人突破する頃にはどんな自分になっているんだろうとこっそりワクワクもしています。笑

 

今やってる5種類のお仕事はどれも天職だと思っていますが、カラーセラピーは特にお客さんの喜びが直に伝わるのでとっても楽しい。

 

改めて振り返ってみたいなと思ったので、「お金」をキーワードに自分のセラピー暦を振り返ってみました、長かったよね、読んで下さってありがとう。

もし気になったら会いに来てくださいね。ベストなタイミングでおまちしております。

 

このお仕事が大好きだ!という話でした。によによ。

 

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加えて、14色のカラーボトルを用いて色を使って現在の状況やお客様ご自身について言語化をし、今の状況を見つめ自分と向き合い、どのように在りたいかという望みを明確にするお手伝いをします。

1時間以内でできることでも十分だと思いますが、より具体的な相談事(進路や人間関係など)がある場合は1時間以上をおすすめしております。

 

癒したいことがあるお客様もいれば、ただただ自分について知りたい!!というお客様もいます。

現在17歳から60歳までのお客様とお会いしたことがあり、昨年12月から累計で50名様を超えました。

 

どんどんパワーアップしていくので、ぜひピンとくるタイミングで会いにきてくださいね!

 

料金は1時間5000円、1時間以上は+2000円です。

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1時間でできること

・生まれ持った強みや、力をお伝えすること

・現在の状況について俯瞰してみつめること

・心や考え方、感じ方の癖を言語化すること

・「どのようにありたいか」を明確にすること

 

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