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仕事を選ぶとき、条件はわりとどうでもいい。

予定と予定の合間を縫うようにして書き起こし。今回のデータも面白くタイムリーな内容が多く、世の中にこれだけ本気で仕事をしてるひとがいるというのはいいなぁと思いながら、沖縄のまんなかあたりで仕事をしている。

「仕事観」というようなものがなんとなく変容したのが7月で、それが馴染んできたのが8月だ。何がどう変わったのかを一旦整理してみたい。

今やっているお仕事というのは、この記事で羅列した。

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のだけれども、さて、というわけだ。何が7月よりも前の暮らしと違うのか、何がどう変わったのか。だけれども、それを考える前に、どういう風にじぶんが「仕事」を捉えているか書いてみよう。

「仕事」という言葉は、いくつかのキーワードに分けて考察することができると思う。お金、場所、ひと、中身、経験値、未来、過去、今、喜び。ざっとこんなもの。

翻訳してみる。

お金・・・お給料
場所・・・勤務地
ひと・・・人間関係

中身・・・仕事の内容
経験値・・積み重ねると得られるもの

未来・・・その仕事をしている少し先にいる自分
過去・・・その仕事をするまでの自分
 今・・・その仕事をしている自分

喜び・・・その仕事を通して人や場に与える影響

(そしてじぶんに与える影響)

最初のブロックはわかりやすい、「条件」とでも名前をつけようかな。条件グループは、とてもわかりやすい。はじめて働いてお金をもらった中学3年の頃はこんな感じの優先度で仕事を決めてた。

お金>場所>ひと>中身>経験値

おお、そのまま並べた順だ。

ちなみに今は、優先順位がばらばらにふわふわ浮いているような感じ、つまりどうでもいい。お金がもらえたら嬉しいけどもらえなくてもいいし、場所が遠くても近くてもいいし、ひとは好きでも嫌いでもいいし、経験値もわからなくてもいい。

最初に「やりたい」と思ったならやればいいし、やりたくないならやらなかったらいい。なので、それぞれの仕事にそれぞれの条件があるような感じかな。何で選んだ!というのを説明しないといけなくなった場面で、この条件を使ってひとに説明しているところが多いかも、まあ「中身」に左右されてるケースが多いね。そりゃそうだろっていう話だけど。

次のブロックの話は少しややこしい。これは「対話」なのだ、それぞれのじぶんの存在がどのようになっているかのイメージを浮かべ、それが心地よいのか悪いのかを見つめる。これを身に着けたのは、今年に入ってからだな。

やめるかやめないか、やるかやらないか、そういう選択を迫られたときにこのイメージを使ってその仕事に対する感触を言語化してみるようにしている。未来はどうなっていたいか、過去どうだったか、今はどうなのか、それぞれ時系列で整理することによってぐっと本音がわかりやすくなる。

たとえば、今年の6月中旬に1年弱務めたカフェを辞めたのだけれど、そこでもこれを使って考えた。3年務めたとする仮のじぶんと辞めたあとの仮のじぶん、務めたくて務めたくて仕方なくて面接を受けたじぶん、そして今のじぶん、それぞれをイメージしたうえで、ゆっくりと本当に心地良い未来のじぶんの姿をイメージしていく。そうすると答えは自ずと出る、もしくは答えを出させるような状況が起きる。

最後が「喜び」

これを書いたときに、じーんとした。わたしが仕事に求めているのはこれだと思う。喜び。何をプレゼントできるのか。わたしに、誰かに、その場所に。

今度また深めたいと思う。

書き起こしのお仕事にもどろ。ちなみに書き起こしのお仕事は、旬な情報のインプットをお金いただきながらできるという条件グループに属するようなハッピーもある、しんどくなるとやめたいか?と対話ブロックをつかって尋ねるけれど、最終的に浮かぶじぶんは「今はまだやりたい」と答えを出す、そして、わたしはそれを信頼している。

そして、喜び。これは言わずもがな。

結局この「喜び」言語化がうまくできない、この「喜び」こそが、わたしがそれぞれのお仕事を通して「働く」を体験している理由なのだと思う。

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誰かの「働く」を通して得るものは感動的なものが多い。

このパニーニもとても美しかった、ハッピーが詰まっていた。

ここで過ごす時間はいつもなんだか忘れたくないなぁと思わせられる時間だ。

わたしもやっぱりそういう空間と時間を、と思うのだ。

Twitterより Facebookが好きな理由

ぜんぶのお仕事にもう手が伸びず、まぶたとまぶたがくっつきそう。

ああ、今日が終わるんだなと実感する。

眠る前、ほんとうはこんなこと考えてる、こんなこと感じてるって言葉にして、またそれを好きなひとと会話するなかで深めたいけど、悲しいかな一人暮らしなのでできない。

電話はたのしいんだけど、たのしさより触れられないさみしさが少し上回るから、好きだけど嫌いだ。

そのさみしさを紛らわすようにたくさんのひとの切り取られた日常や、考え事の見えるFacebookを眺めている。

行間が読み取りやすいので、TwitterよりもFacebookが好きだ。ちなみにTwitterは言葉が少なく、ずっとそのひとのツイートを眺めていないとそのひとの言語が読み取れず、結果表面的な情報の羅列に見えてくるので好きじゃない。

Twitterはとても良い情報の収集源だというひとにときどき出会うけれど、わたしはマーケターではないので、帰属する集団が予想できるTwitterが情報源である必要はないように思う。

得意な人や、中毒な友だちがひとりふたりいれば、とんでもなく流行っているものはわかるし、今はひとのツイートを引用して記事を書くメディアもあるので、ピンとくるようなものは流れてくるようになっている。

いらない文字を身体にいれすぎると身体がよどむ、Facebookはフォローをどんどん外しているので、好きが詰まったものになっている、とても同質的なひとのものばこりなので、情報源になどなりやしない。

ただただ癒しである。好きなひとの話、見たもの、考えたこと、次会うときに話したいことがたくさんできていく。

しかし、その一方で同質的なものばかりが目に触れる状態は好ましいものではないという視点もじぶんのなかにある。

それを補ってくれる、つまり異質なものと出会うきっかけは仕事がくれる。違うひと、違う業界、違う言語、いくつもジャンルの違う仕事が日常に組み込まれている面白さはそこにあると思う。

つまり、セレンディピティが生まれやすい。

また、意識的に異質なものと出会うことを続けていないと、翻訳能力も落ちる。なにかひとつ特化したものがあるタイプの人はたぶんそれでも問題ない。

でもわたしはそういうタイプではないので、翻訳能力が錆びつくのはあまりよいことではない。というわけで、本屋でうげぇと思うタイトルの本にもとりあえず手を伸ばすようにしてる。

今日、洋服屋さんをあとにするとき、オーナーのひとがさらりと、愛してるよ!と声をかけてくれた。びっくりして振り返った。愛してるよ!の響きの持つ照れくささを越えて、よし、生きていこうと思った。

わたしも愛してる。

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「単一」ではなく「複数」である体感

「聞いてやれない大人が悪い」「コミュニケーションの障害っていうけれど、障害にしているのはマジョリティー側」「こちらに話が通じないからといって「障害」というのはなんて自己中心的な考え方なんだ」と怒ってた先生がいたって、大学院で福祉を勉強している友人が教えてくれた。

話を聞いているうちに、昨日感じていたもやもやがスッキリと晴れていくのを感じた。わたしは「できない」ことが多すぎて、でもそれは訓練したらできるようになるようなもので、でも「訓練をする」っていうことがもうやりたくなさすぎてできなくて。

そんなじぶんにずっと罪悪感があった、みんなができることができないとか、それは怠けであって甘えであって、正されるべきじぶんの悪いところだという認識を持っていた。それをなんだか昨日は思い出していたんだと思う。

でも、そんなできないことがたくさんあるわたしは「できない」ときの心地を知っている、そしてそれにまつわる罪悪感を知っている。知識として知っているのではなく、体感としてそれを持っている。その居心地の悪さをジブンゴトとして捉えることができる。それはじぶんの良いところだなとなんだかちょっとうれしくなった。これをどう仕事に活かしていくのかはまだ全然わからないんだけど。にがわらい。

ーーー

夢を見る時、そこには単一の映像が流れているようでそのなかにじぶんがいるようだけれども、数日前から「複数」であると感じるようになった。夢の映像として経験、また記憶にのこっているのはごく一部であるということを認識し始めた。

証明のしようがないので、他のひとにも当てはまるのかどうかはわからないけれど、そういうことを認識し始めたというじぶんを面白がっている。

たいていの場合、映像として見たり記憶にのこっているものは、記憶の整理中に見る断片的なものが多い。あの発言、あの景色、あの匂いが繋がってこれらが形成されているという分析ができるようなものを覚えているようなことが多い。

だけれども、数日前本当に、今まで見た夢のなかで一番悲しい夢をみて、すぐにこれは記憶ではないと察知した。ユングの意識の階層の話にどこまで信憑性があるのかはわからないけれど、あれは無意識、しかも集合的な意識から吸い上げて見た夢だろうと思っている。

でも、それさえも「人間」としてのじぶんの一部であり、それをじぶんのものではないと捉えることは簡単だけれどもそれは何も生み出さない。この悪意もじぶんのものだと、人間のなかにある側面だと認識しているだけで、その邪なものを回避することができるはずだと信じてる。

ーーー

夢が多層的だと気づいたときに、その映像を見ているじぶん以外にもたくさんの経験をしているじぶんがいることに思い当たる。覚えている「映像」はあくまでそれひとつなのだけれども、感覚として、もっとさまざまな世界があることを感じるのだ。

ここ一週間の夢はなにぶんとても濃く、いろいろなストーリーが描かれていたのだけれども、日常のなかで思い募る遠くにいるパートナーのひとへの気持ちとか、仕事への思いとか、環境への考え事とか、じぶんとの人間関係とか、そういったものをひとつひとつ紐解いているような気がする。

身体があるときはできないことを、眠っている間にしているような感じがする。あくまで「感じ」の話だから、どこまでいっても妄想的なんだけれども。。

なんていうか、眠っている間、愛おしいひとたちがそばにいるような気がするのだ。体験としてあのこわい夢の「映像」を見ている間さえも、わたしの周りに寄せられていた思いは、とても純粋な誰かからの思いだったような。この多層的な視点に対する身体感覚は他の考え事にも波及していく。

ーーー

そう最初の話に戻ってくる。昨日は講演会を聞いた、発達障がいや「問題行動」とされる行動を繰り返す児童に対する処置を学校と作業療法士さんと地域がチームになって、どうしたら先生が考えるプレゼントしたい教育を提供できるのか、ひとつひとつ問題を解消していくという話。

わたしはとてもつらかった、聞いていて幼少期から今までのことをバーっと思い出し、大人から言われた言葉を思い出し、クラスメイトにしてしまったことを思い出し、そしてさまざまな要因がそれに絡まっていることを思い出し、とても悲しかった。

だけれども、それは一点のことでしかないのだ。本当に素晴らしいと思った、動作や認知のプロフェッショナルである作業療法士さんが入ることによって、直感的な(再現性のない)支援ではなく、ゴール(卒業)の見える支援が可能になる。そして、登場するステークホルダーがそれぞれジブンゴトとしてそれを捉え、前向きに解決にあたる。嘘抜きで素晴らしいと思っていた。

でも、嘘抜きで悲しかった。どちらも同時に起きているけれど、レイヤーが違う、視点が違う。でも、同時に起きていた感情の揺さぶりであり思考の波であった。

そして、これは精神的なところと、現実的なところというくくりではなく、この支援もひとつのレイヤーであり、別の視点として行政の役割があり、さらに国家レベルでの政治もそこに関与している。さまざまなひとが登場し、さまざまな役割がある。

その構図を捉えること、思考ではなく身体で、それを捉えることが少しできるようになっている。それは「批判」を上手に使いこなせるようになることに繋がる。問題点を放置するか解決するかの選択にも役立つ。

ーーー

どの点にアクセスしたいかはじぶんが選べる。何を見るかはじぶんが選べる。どの点を選んでもよく、どの点からでも何かを良くすること、何かをエンジョイすることは可能なのだ。そこには優劣もなく、ただ複数が同時に存在しているというその事実だけがある(事実っていったってとても内在的なものだから証明できないんだけれども。)

面白い考え事だった。たぶん、今、ポストモダン的なところから、現代に移り変わる変遷のなかにいるのだと思う。それはもう少し勉強しないとしっかりひとに話せるようにはならないけれど、そういうことなんだと思う。

お金や働き方、パートナーシップ、いろいろなものが「アップデート」されようとしている、その動きの繋がりの先にある「モダン」がたのしみで今生きている。より良くなる、それだけを信じて、今目の前のことをただただやっていこうと、そういうことを今思っている。

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色とりどりの音のなか

まだ音のつぶが、まぶたの裏、みみの横、足のそば、ところかしこにきらきらと残っている。ギターの音に心揺さぶられ涙が出たのは生まれてはじめての経験だった。

わたしの毎日は大きな大きな感動と、少しばかりの苛立ちと、誰かや何かへの恋心で形成されているように思う。そんな毎日が愛おしいと思う。

LIVEへの道のりも素晴らしかった、偶然と偶然が紐付いて、数時間前までわたしは久しぶりに会う大好きな友だちの運転するバイクの後ろまたがっていたはずなのに、いつの間にかそこにたどり着いていた。

神さまがふふふと笑う、美しく光のびる空の下、戦争の前から戦争、戦後と表情をどんどん変えた悲しみも喜びもある大通り、その道ををただ歩いていたはずなのに、いつの間にか、そこにいたのだ。

吹き抜けていく風の心地よいこと、今日も昨日もたぶん明日もやり残したことがあるような気がするのに、そんなことどうでもよくなってしまうくらいの心地よさ、身を委ねて風を受けて空までゆけたらどれほどいいだろうと、大人になったのにそんなことをついつい考える。

おとといの晩に見た夢がひどくこわい、とてもかなしい夢だったせいで、昨日と今日はなんだか少しキブンにムラが激しいような気がする、悲しくなったり嬉しくなったり、とても激しい波が心の底のほう揺れている。

だけれども、それをまるっと塗り替えてくれるくらいに色とりどりの音を浴びたのだ。悲しみも喜びもすべてあますことなくギターの音のなかに落ちていて、おおらかに伸びる声がそれを包み込んでしまう、不思議な音のなか漂っていた。まだ心のかけらは少しあの場にのこっているような気もする。

瞬間を忘れたくなくて、部屋の匂いを思い出したくて、これを書いている。帰り道、車で送っていただいているとき、ミラーにうつったじぶんの顔が少し痩せてて驚いた。いや気のせいかもしれないけれど、なんだかぐっと女性らしくなっていた。

あれれと首をひねる。なぜだろう。少ししてから腑に落ちる。ああまた恋に落ちたのかと、じぶんを俯瞰して苦笑い。好きなひとがたくさんいる毎日はとても楽しい、かなわなかった片思いも、遠くにいる大好きなパートナーのひとも、わたしの毎日を豊かなものへとする。

誰かのことを祈れる間、ひとは本当の意味で不幸にはならないのだろうと、そういうセンチメンタルなことも考えた。

LIVEのなかで耳にのこった歌詞があった、「置き去りにした」であった。LIVEが始まる少し前、わたしはそわそわとしていた、そわそわと。身体が落ち着かなくて心がどこに居座ればいいのかわからなくて、なんだかそわそわとする。手は汗ばんでいて、表情がうまくつくれない。

そんなときパッと思い出したのだ。数年前までは、パニックなんて日常茶飯事だったと。きゅっと閉じられた空間のなかに、知らないひとや苦手なひとがいる空間のなかにいることはとても苦痛で、そういうとき、上手に呼吸ができなくなる。

ぐーぱーぐーぱー、手をゆっくりと動かして、外に出て植物を眺めながら風にあたれば少しずついつものじぶんに戻っていく。これが日常茶飯事だったのかと、あの頃のじぶんと久しぶりに出会う。

この世界にはたくさんのひとがいて、いろんなテンポで生きている。アグレッシブなそれもあれば、とても繊細なそれもある。もちろん一定のリズムを刻み続けるひともいれば。そうではないひともいる。それでいいしそれが豊かさだと思うのだ。

だから、あの頃のしんどさはじぶんにとって想像力を養うための良い経験だったと思うし、今でもその残り香があることを認識できたのは、なんだかとても良いことだったように思う。

わたしはとっても強くて、でもやっぱりとっても弱いのだ。それでいいと素直に思う。苦手なものを知るたびに、好きなものをはっきりと知る。信じられないほどの悪意を身に宿すこともあれば、透明なまま誰かの幸せを願うこともある。不思議な生き物だ。かっこわるくて、不細工で、でもとても珍しい、良い生き物だ。

明日も新しいものと出会う、きっと今日より素晴らしい日がそこで待っている、インドの女のひとのお祭りのときにする飾りみたいな位置のとこにニキビできててかっこわるいんだけれども、明日もお気に入りのワンピースを着てしっかりお仕事いたします。いえい!

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バイクのうしろにわたしを乗せた友だちの前、こんな無防備で良い顔をしているとは!
と、驚いた一枚。

真の志を喜ぶ


じぶんが頑張ってたのは"体操部"だったんだ、とさっきわかって、ほろほろ泣いたよ

ラート二台買えたんだ
インカレだって沖縄でできたんだ

何回もそうやって、じぶんのラートとの関わり方を正当化しようしようしてきた

でも、全日本大会出てたのだって、インカレに出てたのだって、じぶんのためじゃなく、体操部のためだったって、そうすることによってじぶんが喜ぶからなんだけど、そういうことだったって、去年出なかったことからようやくわかった

わたしはまだラートを頑張ったことはないんだ

ボルダリングのお仕事を始めたおかげで気づけたんだ、ゆっくりゆっくり上達していくボルダリング、常連さんたちが優しく見守りながら教えてくれる居心地よい場

ゆっくり上手くなるじぶんが嬉しい、でも、ボルダリングにはゴールがない、ゴールがなくていい、この時間を楽しみたい

ああこれが趣味か!と腑に落ちた

今まで、趣味は?と聞かれても、もにょもにょと読書とかピアノとか適当に答えてたの、実感がない言葉だったから、趣味って何かよくわからなかったから

今日ようやくわかったんだ

ああこれが趣味か!と、まじでヘレンケラーのウォーターばりに叫んだよね

シュミカー!!

まあ嘘だけれども、とにかく嬉しかった

それで、ゆっくりゆっくり考えて、大会に出ようって思った

体操部として、ではなく、ひとりの人間として

高校まで身体なんか動かしたこともなかった、喘息持ちのじぶんはスポーツなんて一生やらないと思ってた

そんなわたしの身体を、内面と向き合い続けた部活動の頑張りが、気づかないうちにボルダリングを楽しめるまでに変えてくれていた

跳躍の練習のおかげで、子どもたちといっぱい走り回ったって咳もでない、倒立やマット運動の練習のおかげで、子どもたちに身体の使い方を見せてあげられる

体操部の活動が、今のわたしをつくってる

体操部の活動を通して、わたしがどんな風にその歳まで生きたかを知らないひとたちと、ちゃんとコミュニケーションをとって、人間関係をつくって、そして外へ外へと動くことを教えてもらって

言葉がずれてたから、内面もずれてたんだね

わたしは、ラートをしていたんじゃない
体操部の活動をしていたんだね

でも、真志喜の子どもたちのおかげで思い出したんだ

大学に入ったばかり、沖縄に来てまだ1週間目、部活のオリエンテーションで、今も支えてくれてるパートナーのひとが目の前でバク転をして、その横を4年間支え続けてくださった医学部の先輩のラートがくぐり抜けていった

ひときわ輝く歳の離れた先輩に憧れて、長い間片想いもした、そのひとのラートは魔法みたいで、ラートのうえで踊るさまは今でもわたしに元気をくれる

あの瞬間、わたしはラートに恋をして、夢中で体験をしたんだ、補助についてくれたのは部長、そのあとじぶんが部長になるなんて思いもしないまま、五級のほとんどの技をその時間に習ったんだ

ありありと思い出せるのは、それだけハッピーだったから、匂いも、喧騒も、緊張も、まだ身体のなかにある

思い出しながら文字にしながら涙がとまらないのは、やっとじぶんの本音と出会えたから

何回もう一度と思っても上手くいかなかったのは、「体操部」と「ラート」が混じっていたからだったなんて、思いもしなかったなぁ

わたしはまだ一度もラートを頑張ってない

生きてるうちに、身体がいっぱい動くうちに、もう一度あのときの気持ちで回りたい、向き合いたい、上手になりたい

ラートは、まだ、趣味じゃない

たぶん、次への扉をあけてくれるひとつのキー

あー嬉しい、とっても嬉しい

この気づきに繋がったすべての出来事に心の底からありがとう

ばんざーい!!

あと4ヶ月、どうなるかな?笑

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みんなにほんとにありがとう!